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新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



高校生を悩ます「である」ことと「する」事はおばちゃんのダイエットに例えると分かり易い⑦「日本の急激な近代化」

この節の最大のポイントは、「日本の近代の宿命的な混乱は、一方で『する』価値が猛烈な勢いで浸透しながら、他方では強靭に『である』価値が根を張り、そのうえ、『する』原理を建て前とする組織が、しばしば『である』社会のモラルによってセメント化されてきたところに発しているわけなのです。」という一文が理解できるかどうかにかかっているといえます。
前半の諭吉さんの引用は「自分がどんな身分であるかなんかより、何をしたかが大事だよね」くらいの理解に留めておけばいいとして、ここでは先に挙げた言葉の説明を中心にしようと思います。
(因みに筆者が福沢諭吉の文の引用で伝えたいのは、言葉そのものではなく、その時代にはすでに「する」価値観が広まっていたよねってことです。)
明治時代、急激に近代化をしようとした日本は、ものすごい勢いで「する」論理を導入します。
会社組織がその典型。
しかし、人々の間に「する」価値観が十分に根付いていないため、せっかく取り入れた「する」論理の組織も、結局は「である」論理で運用されてしまっているという状態になってしまっています。
「する」論理でできた組織の中で、今度はちっちゃい「である」社会ができてしまっている。
かと思えば、社会全体はすごい勢いで「する」論理に移行しようとしてしまっているため、今までは「私はこういうものだ」っていうので通じていた人間関係が成り立たなくなってしまいました。
こういうところに、「である」論理と「する」論理がへ変な形で取り込まれてしまっている。
ざっくり言えば、「する」価値観の仕組みだけ取り込んでしまったため、ヘンなことになっちゃったよねってことです。
タモさんみたいなカッコいい大人になりたいって言ってグラサンだけ買った感じ?(笑)

おかしな具体例をはさむと内容が散らばってしまいそうなので、話を戻します。。。
僕たちは急激な近代化を推し進めた結果、ある分野では急激に「である」価値観が消えてゆき、一方でヘンなところに「である」価値観が残るという自体になってしまいました。
そんな移行期のごちゃごちゃの中で生活する人たちは、状況によって空気を読んで、「である」振る舞いと「する」振る舞いを使い分けなければなりません。
そんなテクニカルなことを要求される社会では、そりゃ誰だって疲れてしまうよねということを、丸山さんは文中で「ノイローゼ症状を呈している」とまとめているのです。
そしてそれは、明治時代に既に漱石によって見抜かれていたのだそう。
このような「である」価値観と「する」価値観の混同したきっかけと、現状を踏まえて、次節から具体的な問題点について触れられます。

 
アイキャッチはカオス理論の話とか未来予想とかが書いてあって10ページで読むのを諦めた僕の積ん読本(笑)

 

 

 

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