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新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



高校生を悩ます「である」ことと「する」事はおばちゃんのダイエットに例えると分かり易い⑨「学問や芸術における価値の意味」

最後の節の価値観の再転倒の話に向けて、ここでは教養や芸術における価値についてまとめられています。
筆者はまず、アンドレ・シーグフリードの言葉を用いて、教養は「である」ことが重要と述べています。
「教養においては、しかるべき手段、しかるべき方法を用いて果たすべき機能が問題なのではなくて、自分について知ること、自分と社会との関係や自然との関係について、自覚を持つこと、これが問題なのだ。」
引用されたこの言葉を簡単にまとめると、教養とは何かをするための手段として身につけるものではなくて、教養を身につけることを通して、自分自身を見つめることが大切ということでしょう
実用性ではなくて、それを身に付けること自体に価値がある。
まさに教養は「である」価値観で測られるべきものだと述べています。
その後芸術や教養は「果実よりも花」と筆者は述べています。
果実とはそれを食べて美味しいだとか、身体にいいといった、実際の行為にこそ価値があるものです。
つまり「する」価値観で測られるもののたとえ。
それに対して花は実際にどのように役に立つかといったところには価値はありません。
別に食べても美味しくはないですし、飾っておくと肩こりが治るといった具体的な効果があるわけではありませんよね?(笑)
この意味で花は「である」価値観の中にあるものなのです。
教養も芸術も目的や生産された量といった「する」ことに価値があるのではなく、それ自体に価値があるものです。
だから、こうしたものの価値を多数決のようなもので決めることはできません。
古典として現代に残っているものも同じです。

一方で、政治や経済といった分野は、ひたすらに「する」価値観で測られるべきものです。
筆者も「政治にはそれ自体としての価値などというものはない」と言っていますが、政治家の「先生」自体が偉いわけではありません。
多くの人々の役に立つ成果を出しているからその政治家は評価されるのです。
果実と花の例で言えば、政治や経済活動は、どこまでも結果、つまり「果実」で判断されなければなりません。
政治でも経済でも、何もしないことは価値の無いことと同じなわけです。
これが本節の中盤で述べられていることです。
経済や政治といった「果実」で評価される分野では、何もしないことは価値のないことでしたが、「である」価値観で測られる分野では、何もしなくても価値を持つ場合があります。
観賞される花は、単にそこに咲いているだけで、別に何かの生産活動をしているわけではありません(もちろん光合成と呼吸はしていますが)。
この花と同じように、芸術や学問に関しては、何もしていないことにも価値があるのです。
適度な休息を取ることで素晴らしい作品や学術的なアイデアが生まれるということが、往々にしてあります。
むしろ、休まずに生産し続けたら、どんなに才能のある人でも、生み出す作品の質が低下してしまうことさえあるわけです。
秋元康さんとか作詞する量が増えすぎて、最近どれも同じ様な歌に聞こえてしまいます。
だいたい女の子が好きな男の子に対してドキドキしてる(笑)
文化的な活動に関しては、どれだけの成果物を生産するのかが、その人の価値を測る指標にはなりません。
もちろんそうやって作られた制作物自体も同じ。
「である」価値観で動く分野では、何よりも価値の蓄積が重要なのです。

以上のような形で、この節では「である」ことの価値について説明されています。
そして、最後の節で筆者の一番言いたかった、価値観の再転倒の話が出てきます。


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「教養」とは何か (講談社現代新書)

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