読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



読解力のいらない世界を想像する力

岡田斗司夫さんがSFのいいところは技術が広まったその先の世界がどうなっているのかをも僕たちに見してくれる所であると言っています。
優秀であればあるほど、経営者の話は技術面の進歩に傾きがちです。
現状踏まえるとこのような技術が発展するという将来の技術に関する話。
そこには技術が広がることによってどのような世界が広がっているかという視点が欠けています。
SFではある技術が広まった世界はどのように動いているかということをリアルに描きます。
サイコパスに描かれていたのは、一般意志のようなものがITによって作り出された世界です。
攻殻機動隊で描かれるのは、脳とネットの境界が溶けた世界。
ある技術が発展した世界では、私たちはどのような振る舞いをするのかと言うことを、SF作品は疑似体験させてくれるのです。

私たちが未来を予測する時、その技術の先にどのような世界が広がっているのかと言う、SF的な考え方が非常に大切になってきます。
こうした視点に基づき僕は子供たちの読解力について独自の考えがあります。
読解力の低下を語る際、多くの場合において、何が問題であるかという視点で語られます。
しかし僕は違う視点で見ています。
どうして読解力が低下したのかではなく、そもそも日常生活で読解力が全く必要としなくなった世界では、人々の読み書きに対する思考はどのように変化していくのかという視点です。
今の生活は単語レベルの言語を目で認識できれば十分に成り立ちます。
本を読むという行為分が日常生活においていらない。
一昔前であればどういう形であれ文章を読むという行為が日常生活において不可欠でした。
しかし今はテレビをつければテロップがあり、人とのやりとりはLINEのスタンプで成り立ちます。
あらゆる場面において文字が分として認識されるのではなく希望として認知できれば十分に事足りるようになりました。
こうした社会を生きる世代にとっては、文章を読むというスキル自体が非日常的な動作なわけです。

デジタルネイティブと言う言葉をよく聞くようになりましたが、僕はこの言葉の本質は、文章を読むという行為が必要ない世界を生きる人々というところにあると考えているます。
生まれた時から携帯やパソコンに触れているというところが重要なのではない。
そうではなくて生まれた時から文字の認識が不要な環境であった。
こうした環境はデジタルの発展により生み出されたものである。
表面的な触れるデバイスの変化ではなくその技術が発展したことにより人々の生活形式はどのように変化していくのか。
その次元でデジタルネイティブと言う言葉を捉えるべきだと思うのです。
そう考えたときにたどり着いたのが、「文章を読む必要の無い世界を生きる」という僕のデジタルネイティブの定義です。
生きる上で絶対に必要な要素から読解力がすっぽりと抜け落ちた環境。
その中で読解力を身に付けるにはどのような制度設計しなければならないのか。
そういう視点で見ない限り現場の子供達の事読解力の低下を改善するための案は出てこないように思います。
そして僕たちの世代はこのそもそも日常生活において読解力が必要としないという環境を想像することが極めて困難です。
読解力を身に付けることの大切さを強く自覚している人ほどこの傾向は顕著。
そういう人ほど文章が身近な存在であり、裏を返せばそれがない世界を想像しがたいということだからです。

読解力の低下は今後さらに加速していくと思われます。
10年ほど前のスマホの普及から、日常生活における文章読む機会はさらに一段と減少したと思われるからです。
生活環境の中から文章を読むという必要性がますます低下する。
物心ついた時からそうした社会で育ってきた子たちは、どのようにものを考え世界に触れ、文章に対峙するのか。
そうした部分に対して、十分に想像力をめぐらせることが大切であるように思います。