「勝つこと」の先に何がある?〜おそ松さんと黒子のバスケに共通するゼロ年代の価値観〜
逃げ出そうとしたり意見した人たちが撃ち殺されるという、よく考えたら異常シチュエーション。
しかし6つ子たちを始め、登場人物たちはそんな「不自然さ」はどこ吹く風で、優勝したときの夢を語ります。
山田玲司先生は、この一見すると支離滅裂なストーリーに、強烈な社会への皮肉が込められていたと語ります。
「センバツ」とは、具体的なその先の未来が見えないのに学生が何の疑いも持たずに受ける入試や就職活動の象徴。
6つ子たちが優勝したら何を叶えてもらう?という話で盛り上がる姿は、その試験の先にどんな未来があるのか実際には知りもしないのに、そこに夢を見る学生の姿に重なります。
勝ち残った先に何があるのか知りもしないのに、試験に受かりさえすれば勝ちだと思っている、現代の日本社会に対する皮肉というのが、山田先生の解釈でした。
この解釈を聞いた時、なるほどなあと思いました。
どんな大会なのかも分からないけれど、とにかくトーナメントに勝ちさえすればいい。
そして大会で勝てば、どんな夢も叶えてもらえる。
そんな6つ子の様子は、確かに僕たちの性質を指しているように見えました。
僕たちは当たり前のように受験戦争を越えて大学に入り、当たり前のように就活をして社会に出て行きます。
これが「当たり前」だし、そうやって生きる先に幸せな生活があると信じて疑いません。
しかし、よくよく考えると不自然。
本当にそのシステムの先に幸せがあるのかは分からないのです。
(むしろ現状を見る限り、さまざまな綻びが生じている)
そんな、「よく見たら違和感」があるのだけれど、そこに目を向けず、とにかく勝てば全てが上手くいくと信じている現代人の姿が、6つ子を通して描かれています。
それまではダメなニートの6つ子を見て笑っていたのだけれど、最終回では自分たちの姿が6つ子を通して皮肉られている。
その辺を無意識に感じ取って不快感を覚えた人は少なからずいるはずです。
感想サイトみたいなものは全く見ていないのですが、恐らくは結構批判的なコメントも多かったんじゃないかなあと思います。
こうした僕たちが置かれた先が分からないトーナメントに無批判に乗っかった現状をギャグの視点から描いたのがおそ松さん。
黒子のバスケも似たようなテーマを扱っています。
・・・ちなみにここからが本題です(笑)
キセキの世代と呼ばれて圧倒的な強さを持った中学時代のメンバー。
彼らの信念はとにかく勝ちが全てというもの。
彼らはその強さゆえに、負けた人たちの気持ちが分かりません。
相手のチームがそこまで背負ってきた想いみたいなものを、平気で踏みにじってしまうのです。
そうしたメンバーの考え方は間違えている。
それを証明するために火神という新たなパートナーを選んで彼らと戦っていくのが黒子のバスケのプロットです。
トーナメントのその先に何があるの?というおそ松さんにたいして、黒子のバスケは勝つことだけを目的にして、何なるの?という問題提起をしています。
黒子のバスケという作品は、もとはバスケが好きな人が集まっていた中学校の部活動に、当時の部長である赤司がとあるきっかけで結果至上主義を持ち込んだことから主人公たちの関係がギクシャクし始めます。
結果至上主義はいわば「大人の理論」です。
純粋に楽しんでいたはずの青春に大人の理論が入ってくることで、関係が悪くなる。
そんな当時のメンバーと、高校になって戦うことを通して、結果至上主義になったかつてのメンバーにバスケの楽しさを思い出させる。
黒子のバスケには、結果ではなく、きっかけへの回帰が描かれているのです。
こちらもやはり山田玲司先生の意見なのですが、黒子のバスケに出てくるメンバーの考え方を見ていると、「受験」のイメージに重なるといいます。
周りと個人の能力で競って、とにかく結果を出さなければいけない。
そんな受験メンタルが、随所にみられます。
勝つことだけが目的化している黒子のバスケと、勝ちの先に実体のない夢を見るおそ松さんの最終回。
この二つの作品は、ともに2010年代の空気感を映しているようにも思えます。
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