新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



カリスマ性を持つこととプライベートが充実することはトレードオフの関係にある

Facebookを見ていたら、このところ連日僕の身の周りのカリスマ性の高い友達たちのプライベートが崩壊しているという投稿をみかけて、彼らには申し訳ないのですが、面白いなあと思ってしまいました(笑)

というのも、僕にはカリスマ性がある人はプライベートが崩壊するという持論があるからです。
基本的に人を惹きつける人は、何かしらの惹きつける要因を持っています。
そしてそれは、他者からの期待と言い換えることができる。
それが本人の志なのかもしれませんし、或いは人間性なのかもしれません。
カリスマ性があるというのは、自分に対して他者か期待する志や人間性に答えるということだと思うのです。
 
周囲からのそういった期待に答えようとするとき、等身大の自分ではなく、求められる「自分」を演じることが必要になります。
矢沢永吉さんがバラエティでおちゃらけたことをして欲しいと頼まれた時に「俺はいいけど、YAZAWAは何て言うだろう」と言ったというエピソードを聞いたことがあるのですが、これは周囲に期待される自分を演じるという視点から出た発言です。
どんな人でも基本的に、「等身大の自分」と「役割期待に応える自分」の両方を持っています。
会社に勤めているのならば、勤務先では「仕事人としての自分」、子供がいる場合は「パパ、ママとしての自分」というように、何かしらの役割は誰もが担っています。
そしてこれらの役割を果たすとき、多かれ少なかれ周囲にの期待に応えようとする振る舞いが求められます。
その意味で、ほぼ全ての人が「役割期待に応えようとする自分」を持っていると言えます。
 
問題は「等身大の自分」と「役割期待に応えようとする自分」の比率です。
僕の感覚では、普通の人はこの比率が多くても5:5、たいていは等身大の自分の比率が多くなってきます。
だから職場での雑談でプライベートの話をするし、飲みに行ったら愚痴を言う。
周囲の期待に応える自分を演じるときも、そこにプライベートが顔を覗かせているわけです。
これが「役割期待に応える自分」の比重の方がずっと多くなった人がカリスマです。
等身大の自分よりも周りに期待されている自分を優先するからこそ、周りから「あの人は魅力的だ」と思われ、人に「ついて行きたい」と思わせるのです。
本来の自分よりも周囲からの役割期待に応える自分を優先すれば、当然プライベートは疎かになります。
そして、カリスマ性の強い人ほど周囲の期待に応える比重が高くなるので、行動基準は否が応でも「自分がどうしたい」ではなく、「周りの期待する自分ならばどういう行動を取るだろう」というものになってくる。
こうやって、カリスマのプライベートは崩壊していくわけです。
 
冒頭で、カリスマのプライベートは崩壊すると書きましたが、むしろプライベートが崩壊するのを顧みないからこそカリスマ性を維持し続けられるというのが正しい捉え方かもしれません。
「この人ならきっとこうするだろう」そういう期待に、いつも応えるからこそ人がついてくるのです。
カリスマ性のある人が「いやいやっ、そうは言っても私はこういう事をしたいし。。」といって、周囲の期待を裏切るような平々凡々なことをやった途端に、その人の輝きは失われます。
それがたとえ自分のしたいことであったとしても、「役割期待に応える自分」という基準で一旦考えてしまう。
これをするからこそ、彼らはカリスマで有り続けるのだし、それをしている限りは、等身大の自分としての幸せを掴むことはできません。
カリスマ性があることとプライベートがうまくいかないことは、表裏一体の事柄であるように思います。
 
アイキャッチは「役割期待に応える」を端的に示してくれる江頭さん。

 

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