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新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



「なぜおばちゃんは高校野球を見て感動するの?」問題について

毎日書いているときは、一日でもブログを更新していないときがあると、「あっ」となり、半ば強迫観念といえるような「書かなければいけない」という気持ちに迫られるのですが、何日も書いていないと、パソコンの前に向かってブログのエントリを書こうとすると、なぜか書きたくないという気持ちが勝ってしまい、気がつくとずっと更新をしていない状況になってしまいました。
やはり、習慣化することは大切だなと思う今日このごろです。

大分ブログの更新をしていなかったこともあり、ポケモンや都知事選など、書きたいネタはたくさんあるのですが、直近で面白いなと思ったことがあるので、「なぜおばちゃんは高校野球を見て感動するの?」問題について書かせてください。
始めに僕の立ち位置を確認しておきますが、僕は高校野球に全く興味がありません。
正直なところ見ていて感じる感想といえば、熱そうだなということと、チアの子がかわいいなくらいです。。。
先日、母の実家に挨拶に行ったとき、祖母がテレビで高校野球を見ていました。
そして祖母はいつものように「やっぱり高校球児が頑張っている姿をみると感動する」といっていました。
ここです!!僕が高校野球についてずっとわからなかったのは球児が頑張っている姿を見ると感動するというところなんです。
先日生徒の女の子も球状に試合を見に行ったらしく、同じことを言っていました。
高校野球に限らず、箱根マラソンなどもそうですが、僕は「人が頑張っている姿を見ると感動する」という言葉を聞くたびに「どこにどうして感動するの?」と聴いています。
もちろんこれは決して嫌味ではなく、本気で何処に感動するかを知りたいと思うからです。
で、何人にも聞いているのですが、どうしても僕が納得できる理由が得られませんでした。
何人にも聴くうちに(そしてその殆どに面倒なやつという視線を向けられるたびに)、これはもう、向こうに懇切丁寧に説明してもらうのではなく、こちらから擦り寄っていくしかないなという結論に至りました。
そして、僕が自分の中で高校野球をみて感動する理由を考えてみました。
それが以下の仮説です。

僕が考えたのは、高校野球に感動するか否かのポイントは、その人が高校球児以上の努力をしているか否かにあるというものです。
仮に高校球児と比べると、自分は全く努力をしていなかったとします。
そうすると、高校野球を見ていると、「あれだけ頑張った子たちが努力で結果を掴んで感動した。」あるいは「あれだけ人生をささげて頑張ったのに夢が破れてかわいそう」という気持ちが生まれるのだと思います。
逆に、普段から高校球児よりもはるかに多くの努力をしている人がいるとします。
この部類の人にとっては、高校球児の努力は別に評価に値するレベルではありません。
むしろ何かを掴み取ろうと思うのであれば最低限必要な努力量。
そうなってくると、高校野球の見え方が途端に変わってしまいます。
当たり前の努力をした人たちが試合をして勝ち負けを競っているだけ。
そこには一過性の勝敗に関するワクワクはあるかもしれませんが、「努力した人たちが夢に向かって頑張る」という種の感動は生まれません。
自分が高校球児(ここでいう「高校球児」はスポーツをみて感動するという手のコンテンツの代名詞としての扱いです)の努力が自分の想定する努力よりもはるかに大きいと感じる人にとっては、高校野球は感動するコンテンツで、自分の方がはるかに努力していると自負している人にとっては何も感動する要素がない。
これが、高校野球に感動する人としない人の違いなのかなあと思います。

こんな風に書くと高校球児の努力を馬鹿にするなと言われてしまうかもしれませんが、少なくとも僕は自分の仕事や関わるプロジェクトに関して、高校球児と比べても負けないくらいの努力をしていると自負しています。 
だから、高校野球をみて微塵も感動はしないけれど、磨かれたプレイを見れば凄いとは思うし、その練習量を察すると彼らに負けないくらいに努力をしようと元気づけられることはあります。
たぶん感動するか元気づけられるかは、コンテンツに対する向き合い方の違いなんだろうなあと思います。
そんなわけでこれが現時点で考える、高校野球に感動するか問題のとりあえずの考えです(笑)