新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



マンガで読み解く男女のすれ違い〜少年マンガVS少女マンガ

「信じてくれるなら話さなくても」
「悪いことしてないなら話せるはずじゃない」
「僕を信じてくれないんだ」
「私を信じて話してくれるんじゃないんだ」
バクマンの8巻「頑固と素直」に出てくる、僕がこの作品で最も好きな場面の一つです。
男女の「信じる」の定義の違いが、とてもよく描かれていると思います。
物語の主人公、サイコーは、自分がやましいことで隠し事をしているのではないと「信じて」欲しいといい、ヒロインの亜豆は、ありのままを話してくれれば納得するから自分を「信じて」全てを話して欲しいという。
どちらも同じ「信じて」ですが、そのベクトルは反対方向を向いています。
皆さんはサイコーと亜豆の「信じて」について、どちらの気持ちにライドしたでしょうか。

おそらく男の人ならサイコーの言い分の方が理解できて、女の人なら亜豆の言い分の方が分かる!となるのでは。
サイコーの「信じて」は少年マンガ的で、亜豆の「信じて」は少女マンガ的。
バクマンのこの場面が好きな理由は、少女マンガ的な心の動きと少年マンガ的な心の動きが対照的に描かれている点にあります。
少年マンガには少年マンガらしいロジックがあり、少女マンガには少女マンガらしいロジックがあるというのが僕の持論。
それならば、少年マンガで育ってきた人にはどこか「少年マンガらしい」思考回路が身についていて、少女マンガで育った人は、「少女マンガらしい」思考回路があると思うのです。
僕が思うそんな違いをいくつかまとめてみました。


「1番好きだから最優先」と「1番好きだから後回し」
僕が少年マンガと少女マンガにおいて1番大きな違いだと考えているのは、この部分です。
1番大切な人だからこそ最初に助けるのか、1番大切な人だからこそ最後に助けるのかという違い。
少女マンガは前者で、少年マンガは後者。
王道少女マンガでは、「お前が好きだ。だから世界の全てを敵に回してもお前を助ける」となります。
それに対して王道少年マンガの場合は「お前の事を誰よりも愛している。だから全てを救った最後にお前の元に戻ってくる」です。
少女マンガでは好きだからこそ最優先で、少年マンガでは好きだからこそ後回しになる。
ハチミツとクローバー」も「海月姫」も主人公を取り巻く男の子たちは、主人公の女の子のために動きます。
それに対して「ドラゴンボール」も「タッチ」も、好きな人よりも先に世界を救ったり夢を追いかけたりする。
「好きだから全てを片付けて最後に君を迎えに行くよ」が少年マンガで、「好きだから全てを投げ出して君を迎えに行くよ」が少女マンガ。
そして、少年マンガを読んで育った僕たち男は、どこか少年マンガ的な価値観に共感する節があります。
少女マンガで育った人は、少女マンガ的な方に共感するのだと思います。


「汚い汗も全て描くからリアル」と「汚い汗を描かないからリアル」
評論家の岡田斗司夫さんが以前、「汚いものまで忠実に描いてしまうのが少年マンガ的なリアルな描写で、目に写したいものだけを徹底的に描くのが少女マンガ的なリアルな描写」と言っているのを聞いて、妙に納得しました。
少年マンガの中では、自分の目にどう映るかではなく、実際のものにできるだけ忠実に描かれます。
それが少年マンガの「リアル」
それに対して少女マンガでは、主人公の目を通して見えた景色がより忠実に描かれています。
これが少女マンガのリアルな絵。
情景を書き込むのが少年マンガのリアルで、心情を書き込むのが少女マンガのリアルだと思うのです。
だから少年マンガの汗は汚くて、少女マンガでは主人公がかく汗は綺麗に見える。
少年マンガの汗は誰がどうかいても「汗」であるから綺麗ではいけません。
逆に、少女マンガの汗は人物のいろんな思いまで込められて描かれているので汚いわけにはいきません。

教室の絵とかでもそうです。
教室のゴミや机の汚れまで書き込むのが少年マンガで、心情的に強く残る部分を中心に書き込むのが少女マンガ。
同じリアルな描写でも、情景を忠実に描くのか、心情を忠実に描くのかで違います。
男視点で見ると「心情的なリアルなんてリアルな描写ではない」と思ってしまいます。
しかし、実際に僕たちが自分の目で見るときは、好きな人と話しているときにいちいち周囲の情景すべてにピントがあっているわけではなく、他のほとんど全てに意識は向いていません。
その意味では心情に忠実に描かれた少女マンガ的な絵の方がリアルとも言えるのです。

「強敵と書いて『とも』と読む」と「親友と書いて『とも』と読む」
友達に関しても少年マンガと少女マンガではアプローチが違うように思います。
少年マンガでよくあるのは、かつての敵が仲間になるというパターン。
ここで注目すべきは、仲間となったとは言っても、完全に主人公の味方になったというわけではない場合が多いという点です。
決して主人公の側についたわけではないが今回は手を貸してやる。
少年マンガにはこういったスタンスの友情がよく出てきます。
僕はこれをベン図型の友情と呼んでいます。
普段は主人公と相容れない存在であるし、そこではお互いに敵とみなしているが、ベン図のようにお互いの主張が重なる部分に関しては協力し合う。
これが少年マンガ的な友情の特徴です。
少年マンガの友情がベン図だとすれば少女マンガの友情はベクトルに近い気がします。
もちろん全てがというわけではありませんが、ベクトルが「向き」と「大きさ」で出来ているのと同じように少女マンガの友情はどれくらい同じ方向を向いているかとその思いの大きさで出来ています。
そのベクトルが逸れてくることと、思い大きさの差で描かれるのが「すれ違い」です。
少年マンガ的な友情は、お互いに重なっているベン図の共有空間においてどれだけ濃密な関係を結ぶかで、少女マンガの友情はどれだけベクトルの向きと大きさを互いに揃えられるかです。
だからワンピースでルフィは敵の海軍大将藤虎に「オレおっさんのこと嫌いじゃねえから」といい、藤虎は「お前さんきっと優しい顔してるんだろうねえ」となるのです。
或いは君に届けのケント君と矢野ちんは、その向かうところと思いの大きさの違いですれ違いが少しずつ大きくなり、やがて別れてしまうのです(これは友情というか恋愛ですが)。


上に挙げたのはパッと思いつく少女マンガと少年マンガの違いですが、こういったものはまだまだあります。
少年マンガが苦手という人も、或いは少女マンガはちょっとという人も、それぞれの考え方の傾向を知って読めば多少は作品世界に没入できるように思います。
また、男女のコミュニケーションに関しても、少年マンガ的思考と少女マンガ的思考を理解しておくと、いろいろと上手くいくことがあるはずです。
両方を読んでみると、いろいろな気づきがあって面白いかもしれません。

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