まどマギの姉妹作品としてのモブサイコ〜少年少女は不思議な力を失って大人になる〜
「少女は絶望を知って、大人になる」
見方は人それぞれで、その人なりの解釈があるということを前提に、僕は魔法少女まどかマギカという作品をみた時、こんなメッセージ性があるように思いました。
魔法少女まどかマギカは、普通の女の子が何でも一つだけ願いを叶えてもらう代わりに、魔法少女となって様々な魔女と戦います。
作品の後半で語られるその魔女の正体は、実はかつての魔法少女。
魔法少女は戦いに疲れ、自分の運命に絶望すると、やがて魔女になってしまいます。
しかし永遠に戦い続けること、つまり永遠に少女のままでいることはできるわけもなく、やがては魔女となってしまう。
僕はこの「魔法少女」と「魔女」の関係は、少女がやがて大人になることのメタファーであると考えて作品をみました。
いろいろな夢を見る子供にとって、様々な現実と折り合いをつけながら生きている大人はまさに「魔女」。
その魔女=大人にならないために抗うけれど、当然いつかは大人にならなければいけません。
魔法少女まどかマギカにはそんな、大人になることへの拒絶と、大人にならざるを得ない現実が描かれているように思いました。
僕は3人以上から薦められた作品は好みに関わらず見ることにしているのですが、当時何人もの友達に薦められてまどマギをみた時に持ったざっくりとした感想が上のようなものでした。
当時まどマギに衝撃を受け、子供が主役の物語における「魔法使い」という位置づけについて、 チラホラ考ていました。
先日、とあるきっかけでモブサイコ100というアニメをみた時に、久しぶりにこの「魔法使いと大人」問題を思い出しました。
主人公は誰よりも強い超能力を持つ少年。
しかし本人は、超能力なんて持っていても役に立たないと、常に目立たない人並みの生活を送っています。
そんな主人公の周りには、超能力に憧れる大人や子供たちが溢れていて、モブサイコには主人公モブを中心に彼らとの様々なやりとりが描かれています。
僕がこの作品をみて面白いなと思ったのは、全編を通して登場する「超能力に憧れる大人たち」です。
彼らは超能力を持っている人々に憧れ、あるいは超能力を持つ大人たちはその力を使って世界征服のような壮大な夢を語ります。
そんな「大人」たちと対峙する主人公たちは、「大人になれ」と言って彼らと戦う。
モブサイコに登場する多くの「大人」が超能力に憧れるなか、主人公モブの師匠霊験(名前です)だけは、超能力を持たず、また超能力に憧れない人物です。
そして、彼は主人公がピンチの度に超能力が使えない身で戦いに割り込んで、「超能力なんて夢を見ていないで大人になれ」と敵を諌める。
この作品において主人公を取り巻く「大人」の中で、霊験だけが本当の意味での大人として描かれます。
モブサイコでは、超能力に憧れる大人が「大人になれなかった子供」として描かれています。
超能力という夢のようなものに頼らず地に足つけて現実と向き合えというのが、この作品から僕が受けたメッセージです。
まどかマギカが「大人になりたくない少女」を描いている作品として捉えるならば、モブサイコは「大人になれなかった大人」を描いた作品と言えるでしょう。
魔法や超能力といった不思議な力を失うことで大人になるという点で、僕はこの2冊品に共通性を感じました。
この2冊品を比べた時に面白いのは、両者が同じモチーフの中で伝えようとしているメッセージ性の違いです。
魔法少女まどかマギカでは、どんなにあがいてもいつかは大人にならなければならないということが描かれています。
それも魔女という敵として。
まどマギにおいては、大人とはできることならなりたくないものです。
それに対してモブサイコでは、自らの意志で地に足をつけて大人になろうという形で「大人になるということ」が描かれています。
2000年代が終わった時に発表されたまどかマギカが「嫌でも大人にならなければならない」ことを伝え、2010年代半ばで発表されたモブサイコでは「いい加減大人になろうぜ」と語られている点に、時代の空気を感じます。
「不思議な力を失って大人になる」というのは、多くの作品で描かれてきたモチーフでした。
こうした「不思議な力を失って大人になる」というモチーフの最先端としてモブサイコ100という作品を見ると、非常に考えさせられるものがあるように思うのです。
モブサイコ100(1) (少年サンデーコミックススペシャル)
- 作者: ONE
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2013/08/19
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログを見る