その時に強く感じるのは、「仕事はお金を稼ぐ手段」と割り切っている人が多いなあということ。
もちろん、やりがいに基づいて行動している人も一定数いますが、同時に徹頭徹尾「仕事」と割り切って労働に身を投じている人も多くいます。
良くも悪くも欧米的。
仕事を「仕事」と割り切っている人にとって、毎月決まった給与が振り込まれるサラリーマンという仕組みの中で一番合理的な行動は、どれだけ手を抜くかということになります。
そこにやりがいを求めていない以上、同額の給与を受け取ることができるのなら、手を抜くだけ使うコストが低く済むからです。
僕はお金のために働くというタイプではないのでこの手の思考回路はよくわからないのですが、理屈の上では分かります。
むしろ、僕が興味あるのはそれほどやる気もないのに一生懸命労働力を投じるオジサンたちです。
やる気もないしいつも愚痴ばかりなのに残業をしたり身を粉にして働いたりと、僕にはやる気のない若者の思考は分かっても、この手のタイプの人たちの気持ちが分かりません。
一定の給与にも関わらずやる気がないのに必死に働くのはどうみても合理的でないように思うからです。
やる気があって一生懸命に働く人も、やる気がないから最低限のパフォーマンスでやり過ごす人の気持ちもわかります。
やる気はあるけれどサボる人もまあ納得できる。
でも、やる気がないのに一生懸命な人は、今まで僕の中では理解できませんでした。
彼らだけは合理的に動いていないように見えて仕方がなかったのです。
しかし違いました。
お店で飲んでいて、周りの人たちの会話に耳をそばだてているうちに、この手の人たちの行動理由にある共通点があることに気がつきました。
全くもって勿体振ることではないのですが、それは居場所を他に持っていないということです。
働く場所は職場で飲みに行く友達も職場の同僚。
そして休日は職場の人たちとゴルフにいき、たまの休みは家族と過ごす。
職場に仕事をする場としての機能以外に、自分の居場所としての機能を求めているわけです。
だから、「仕事」としては全くやる気がなくても、「居場所」としての必要性が非常に高いから、仕事は全くやる気がないのに一生懸命打ち込むみたいな行動パターンが生まれるのだと思いました。
僕が出会った人たちを見ただけの印象論ではありますが、この手の思考を持っている人とそうでない人は30歳前後を境に大きく分かれるように思います。
30歳以上の人たちだと、職場に仕事としての機能とコミュニティとしての機能を求めている場合が多い。
それに対して30歳以下は職場にコミュニティとしての機能を求めている人の割合は減っていくように感じます。
特に僕らの世代はそれが顕著。
もちろん職場の人たちと遊ぶのは楽しいし、全く不満はないという人たちでも、別の「遊び友達」のコミュニティを持っています。
30歳以上の人たちにとっては職場の同僚は「仕事仲間であり友達」であるのに対し、30歳以下の人にとっては「遊んでもいい仕事仲間」くらいの感覚であるように思うのです。
ここで大切なことは「仕事仲間=友達」という等式ではないということです。
仕事仲間と友達が等式で繋がっている場合、どちらかの関係が絶たれれば、必然的にもう一方も絶たれてしまいます。
そのため、仕事で信用を失うイコールプライベートでの交友関係がなくなってしまうということになりかねません。
仕事仲間は遊んでもいい知り合いくらいの位置付けの場合はこうはなりません。
この場合仕事仲間は友達という大きな集合の中の部分集合のひとつです。
つまり、仮にその関係が途絶えたとしても、当人の友達という集合の中には他の幾つかの部分集合が残っているため、それほど多くの痛手にはならないのです。
だからこそ、仕事はお金をもらう手段と割り切って最小限の努力に抑えるという選択ができる。
職場に仕事以外の機能を求めているか否か。
この辺を理解するとゆとり世代とそれ以上の世代の理解が深まるように思います。
関連エントリです。よかったらこちらもお願いします!
- 作者: 葉石かおり
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2012/02/24
- メディア: 新書
- クリック: 6回
- この商品を含むブログ (3件) を見る