新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



「周囲の期待する宇多田ヒカル」を演じる大変さ

先日YouTubeのオススメ動画の中に、宇多田ヒカルさんのインタビューが入っていました。
ちょうど「真夏の通り雨」の考察エントリを書こうとしていたので見てみたときに印象に残ったのは、「人間活動に専念します」と言った、活動休止前の一言でした。
対談相手のアナウンサーに「人間活動とはどういうことか?」と聞かれ、宇多田ヒカルさんは、「これまでの私は周りの人間全てに特別扱いされ、普通の私として生きていく場がないと思った」というようなことを言っていました。
これって、人の前に立つ仕事をする人間なら、多かれ少なかれ、似た想いは必ずしたことがあるんじゃないかなと思います。

せいぜい20人くらいの生徒さんの前で授業をする程度の僕ですら、授業をする時は「みんなが期待する先生」像に答えられるように演じる節があります。
そうしなければとてもじゃないですがオーバーリアクションは取れないですし、全力で想いを伝えようだなんて真似はできません。
僕が塾の先生を初めて一番初めに身につけたのは、普段の僕と「先生」として教卓に立つ時の自分を区別することでした。
日常の延長のテンションで子どもたちの前になってしまえば、そこで伝えられる熱量みたいなものは、「普通の人」と変わりません。
そこでなんらかの影響を与えようと思ったり、言葉に重みを持たせようとしたら、みんなの期待に応えられるようなキャラ立ちをさせて、自分の「らしさ」にレバレッジをかけることが不可欠です。

お客様さんが期待する「私」を演じるためには、当然周囲が自分に期待するキャラクターの側面を強調しなければなりません。
そして、当たり前ですが一部分のキャラクターを強調すればするほど、等身大の自分からはかけ離れていきます。
キャラを立たせるというのは、それ以外の自分の要素を抑えて、一点を強調することだからです。
たった20人足らずの子どもたちの前で、それもキャラ立ちさせることが本分ではない僕ですら、期待に応えようとすると時々しんどいなと思うことがあります。
何万人、何百万人という人たちの期待に応えなければならない宇多田ヒカルさんのようなアーティストが感じるストレスは、とてもじゃないですが想像もつきません。
等身大の自分と、周囲の人々が期待する「宇多田ヒカル」との乖離に耐えきれなくなったからこその、人間活動に専念したいという活動休止理由だったのでしょう。

宇多田さんのインタビューをみていた時に、SMAPの解散が頭によぎりました。
彼らは宇多田さんに負けない有名人です。
まして彼らはSMAPという一つのイメージをお茶の間に届ける、文字通りアイドル(偶像)という存在。
自分たちそのものの存在を価値として国民的スターになったSMAPのみなさんの背負う「期待に応える義務」は、楽曲から連想されるイメージを保つアーティストの宇多田ヒカルさん以上に苛酷なものであったことは、想像に難くありません。
だからこそ、僕はSMAP解散というニュースが年初に流れたときの第一印象は「そりゃそうだ」でした。

周囲に期待される自分像と自分の押し出したい自分らしさは必ずしも一致しません。
むしろ、それは食い違うのが殆どです。
それでも人の前で期待に応えようとしたら、押し出したい自分の気持ちを押し殺して、期待に応え続けなければなりません。
それが、自分を商品として人前に晒すことを「仕事」として選んだ人たちの義務だからです。
商品として自分のキャラクターを販売することに疲れるというのは極めて当たり前のことだと思います。
宇多田規模なら復帰に6年がかかり、SMAPさん規模ならあそこまで疲弊し尽くすことになる。
宇多田ヒカルさんのインタビューを見ていて、才能で生きる芸能人のしんどさちたいなものが伝わってきた気がしました。

アイキャッチ宇多田ヒカルさんのNEWアルバムFantome

Fantôme

Fantôme