因果と相関
僕はよく高校時代の物理の先生が苦手だったという話をします。
説明は分かりやすく、熱意のある方だったのですが、その人の喋り方というか、考え方がどうにも苦手だったのです。
彼の事が苦手だった最大の理由は、因果関係と相関関係がごっちゃになっているところにあったような気がします。
どう考えても相関関係(大学で統計学を習ってこう呼ぶ事を知りました)しか言えないものを、さも因果関係があるみたいな言い方をするんですよね。
それがいちいち鼻についたのだと思います。
たとえば「下駄箱の周りが綺麗な学年は受験結果がいい。だから下駄箱を丁寧に使え」とか、「話をよく聞く子は勉強ができる。だから(俺の)話をよく聞け」とかいうことを全力で言われると、その因果関係を示してくれと思ってしまうわけです。
本人の中では「下駄箱を丁寧に使う学年=入試結果がいい」→「成績を上げるために下駄箱を丁寧に使うことを心がけるべき」という因果関係が全く違和感なく成り立っているみたいです。
そこに因果関係はないなんて、そもそも思ってもいないからタチが悪い。
彼のことを苦手だった最大の理由はここにあります、というかこれに尽きる気がします。
根性論や感情論で語る人は生きている世界が違うんだなあと割り切ることにしているのでそもそも噛み付こうと思わないのですが、相関関係と因果関係がごっちゃになっている人はそこに当人なりのロジックがあるから本当に苦手です。
「下駄箱の周りが綺麗な学年は受験結果がいい。だから下駄箱を丁寧に使え」について、「下駄箱の周りが綺麗な学年は受験結果がいい。」は確かに成り立っているのかもしれません。
しかし、これは直接的に因果関係で結べる現象ではなく、個別の事象に正の相関があるというだけのこと。
「アイスクリームが売れる季節には熱中症患者が多い」というのも「警察の検挙率が高い地域は犯罪発生率が高い」というのも正しい情報です。
だからといって、「アイスクリームが売れるから熱中症患者が増える」も「警察がたくさん検挙するから地域の犯罪率が高い」という因果関係はそこにはありません。
アイスが売れる季節は気温が高い季節になる→気温が高い季節は熱中症になりやすい→アイスを食べる季節は熱中症患者が増えるが正解でしょう。
下駄箱の話もこれと同じで、相関関係話も言えても、因果関係は全く言えないんですよね。
因みに僕は100歩譲って下駄箱を丁寧に使う学年は受験結果がいいという関係が成り立っているとして、その理由は「下駄箱を丁寧に使う人が多い→家庭での躾が行き届いている人が多い→家庭での教育が幼い頃からなされている→相対的に基礎教育の水準が高い→受験結果が良くなる」だと思っています。
少なくともこれなら納得できる(笑)
「話をよく聞く子は勉強ができる。だから話をよく聞け」も同じです。
確かに「話をよく聞く」ことと「勉強成績」には正の相関があるかもしれません。
しかし「話をよく聞く→勉強ができる」という因果関係は成り立ちません。
僕はこの話に関しては因果関係が逆向きであると考えています。
つまり、「話をよく聞くから勉強ができる」ではなく、「勉強ができるから人の話を聞くことができる」だと思うのです。
そもそも人の話を聞かない最大の理由は、その話に魅力(もっと言えば価値)を感じないからです。
そして、話に価値を感じるか否かは当人の知的レベル次第。
たとえば、アインシュタインが相対性理論を話していたとして、そのロジックが理解できる人にとってはとても面白い話かもしれませんが、それが理解できない人には単なる「小難しい独り言」としか捉えられません。
これと同じで、「話を聞くから勉強ができるようになる」ではなくて、「勉強ができる人は理解力があるから話を聞くことができる」だと思うんですよね。
「AとBには相関関係がある。したがってAとBの間には因果関係がある。」は成り立ちません。
相関関係と因果関係をごっちゃにした語りをすると、それはすごく恣意的に聞こえることがあります。
僕が高校時代のこの先生のことが苦手だった最大の原因はここにあったのかなあなんて思います。
(仮にも物理の先生なら、因果と相関の区別をつけようよという、いい先生だったからこその期待値も含めて)
なんていう、愚痴混じりの昔話(笑)