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新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



スマホゲームとスロットに見る消費社会的メカニズム

中学校時代、学校が終わるとあれこれごまかして部活をサボり、散々ゲームセンターに入り浸ってスロット漬け。
やりたい台があるという理由で10キロ近く離れたゲームセンターもいくつか常連で片道4、50分かけて自転車で通うのはザラ。
そんな本当にどうしようもない中学校生活を送っていた僕ですが(このエントリの冒頭の話に使おうと思い出したのですが、思った以上にダメ人間だったと分かりました…)、今は殆ど興味がなくなってしまいました。
今は付き合いか数ヶ月に一度人間観察で訪れるくらいです。
もちろん当時研究し尽くした(笑)情報と、ちょこちょこと見に行って仕入れた知識である程度スロットの歴史について体系的に話すことはできますが、今の事情みたいなことや、台の情報みたいなものは全く分かりません。

僕があれほど熱中していたスロットなのに、あるときを境にぴったり興味がなくなりました。
自分でもどうしてか分からなかったその理由は、ある現代文の文章の中に書いてありました。
それは2009年のセンター試験の現代文の問題です。
「缶蹴りの政治学」という文章なのですが、この文章ではさまざまな室内ゲームと子供たちの関係性が論じられています。
その中で子供たちの娯楽に関して、以下のようなことが書かれていました。
「次々と新しいゲームが子どもたちに与えられるが、それらは表層だけを変えたもので全て同じ構造を持っている。子供たちがそれに気付いたとき、急激に熱が冷め同じ構造を内包したものには関心を示さなくなるだろう。」
細かな言い回しは違いますが、おおよそこんなことが書かれています。
僕はこの文章を読んだとき、僕がスロットに対する関心を失った理由はまさにこれだと思いました。

はまっていたときは新しいスロット台が導入されるたびにスペックを調べて、実際に遊んでみて、その違いに興奮していたのですが、よくよく考えてみたら、表面的な演出が変わっただけで、その仕組み自体はほとんど変わっていないんですよね。
パッケージとちょっとだけ香料の配分を変えただけで「期間限定」と銘打って販売されているお菓子と同じ。
全く構造は同じで表面的に塗り替えただけのものを「新商品」として消費させられている。
それを肌感覚レベルで悟ったときに、急にそれまでの熱が冷めてしまったのだと思います。

僕がスロットで覚えたのと同じ感覚が、今のスマホゲームでも感じられます。
数週間おきに期間限定の特別クエストが用意され、それを攻略することがいわゆる今の主流スマホゲームの楽しみの一つでもあるのですが、やっぱり僕には「本質的に同じことをやらされている」という感じが拭えませんでした。
ゴールの見えない同じ作業が姿を変えて毎回送られてくるだけに思ってしまったのです。
僕がモンストもパズドラも黒猫のウィズもすぐにやめてしまった理由はここにあります。
どうしてもそこに「消費させられている」感を感じてしまうのです。
確かにキャラデザや能力は変わっているけれど、攻略の仕方は全く同じだよねという部分を意識した瞬間のスマホゲームに対する熱の引き具合は自分でも驚くくらいにはっきりしていました。
本当にスロット熱が冷めたときと同じ現象です。
だからこそ、スロットのターゲットとスマホゲームのターゲットはかなりかぶっているのではないかと思いました。

ゲームにしろスロットにしろ、僕ははまっている人を批難しようだなんて気持ちは毛頭ありません。
ただ、スマホゲームもスロットも、凄く消費社会的な娯楽であるということに対して面白みを感じているだけ。
表層的な変更を繰り返すだけであそこまで人びとを熱中させるこれらの娯楽を研究してみると、人々を飽きさせない仕組みづくりみたいなものが見えてくるような気がします。