新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



和歌の読み方、楽しみ方

この2週間ほど、僕にしては(予想変換で「バカにしては」ってでてきたんだけど、どういうこと?笑)珍しく、ガッツリ働いていました。

で、その中で普段やらない単元をテスト対策で扱ったのでそこで思ったことを徒然と。。

 

中学生のテスト対策で和歌の単元を扱いました。

僕は必ずしも和歌が好きなわけではないのですが、自分なりに和歌の良さを考えると「俺には世界がこう見える」っていう世界の見え方を提示してくれるところにあると思っています。

例えば「春過ぎて夏来たるらし白たへの衣干ひたり天の香具山」だったら、「新緑で染まった緑の山にアタックのCM顔負けな真っ白のシャツが干してあるところって夏の訪れを感じるよね」みたいな感じ。

その作者がワクワクしたところを三十一文字(みそひともじ)で切り取ったのが和歌だと思っています。

その視点で和歌を読んでいくと、自分の中にどんどん「感覚」の引き出しが増えていく。

 

人は知らなければ見ることはできないという例で、僕はいつもカイユボットの「パリの通り、雨」を例に出します。

この絵画には雨の日のパリの景色が描かれているのだけれど、そこに雨粒はありません。

濡れた地面と人々の雨傘で、雨の日が描かれている。

チームラボの猪子さんは、これを「その頃のヨーロッパには雨は細い線で描くとそれっぽく見えるという考え方がなかった」と説明しています。

浮世絵で初めて雨が線で描かれ、その技法が広がることで、今の僕たちが当たり前に描く「細い線」の雨が生まれます。

また、前提でそういう見え方が刷り込まれているから、僕たちは雨を見たときに「細い線」に見えているわけです。

つまり、知っているから知覚することができる。

 

僕は正直あまり和歌が好きではなかったので、その技巧やそこに込められた意図を読み取ることを楽しみにして読んでいました。

だから、必然的に頭に残っているのは超絶技巧が凝らしてある和歌ばかり(笑)

「唐衣 来つつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞおもふ」

たとえば枕詞、序詞、掛詞、縁語と修辞法がふんだんに盛り込まれ、その上それぞれの頭の文字を繋げるとお題である「かきつばた」がしっかりと入っている(折り句といいます)この歌。

あるいは和歌ではないですが、江戸時代の狂歌師である蜀山人が詠んだ近江八景(瀬田・唐崎・粟津・堅田・比良・石山・長谷寺三井寺)を全て読み込んだ「乗せたから 先は粟津か ただの籠 ひら石山に 走らせてみい」など。

ツイッターで拾って来たやつだと、上から読んでもしたから読んでも同じになっている「ダメ男子 モテ期が来ても 死んだ目だ」なんていう川柳もなかなか技巧派だと思います(笑)

技術至上主義で見ていくとこんなものばかりが頭によぎりますが、これを和歌は先人が残した「見え方の見本市」のように捉えるようになってからは、好きな和歌が変わってきました。

例えば霜の降りた庭の橋を一年に一度織姫と彦星が出会うためにかかると言われる天の川のかささぎの橋に例えた百人一首の「かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける」や、万葉集の恋をしているときに好きな人を待っていて、来たと思ったら秋の風が簾を揺らしただけだったという恋心を描いた「君まつと 我が恋ひをれば 我が宿の 簾うごかす 秋風の吹く」なんかがうまいなあと思うようになりました。

 

「確かにそんな風に見えるよね」っていう、作者の発見として見れば、和歌も少しだけ楽しめるような気がします。

そもそもどういう風に楽しめばいいのかを教わることなくいきなり和歌をあてがわれても、なかなかにキツいところがあるように思うんですよね(笑)

たぶんこれは芸術作品も同じです。

いろんな人の世界の切り取り方をコレクションしたいという視点が備われば、楽しめるものなんだと思います。

小難しいうんちくや技法を知る必要はないけれど、見たままに感じろも不親切。

芸術作品にふれさせるときは、見る「視点」を伝えることが大切なのではと思います。

 

アイキャッチは「ちはやふる