新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



先週出会った教育界隈の人たちの熱にあてられて、柄にもない教育観を書いてみた(あくまで個人の感想です。)

先週は教育界隈の人とよく出会う一週間でした。
行きつけの居酒屋で教育系の事業を立ち上げた方と出会ったり、他の塾の先生と話したり、土日は教育系のNPO法人さんのお手伝いで親子クッキングコンテストのお手伝いをしたり、そこで小学校の先生と出会ったり、2日連続で塾の先輩と飲んで周ったり(笑)
で、僕は基本的に自分の教育観みたいなものを人に語るのは好きではないのですが、教育に携わる人たちと飲んでいれば、否が応でも話はそういう方向に行きます。
やっぱりしゃべっていると頭の中で考えてしまうので、浮かんだことをまとめておきたいと思います。

いろいろな人と話している中で強く感じたことは、指導者としての立ち位置の違いでした。
僕は生徒と先生の関係の作り方に関して、縦軸に二人の立場、横軸にコミュニケーションのとり方をおくことで、4つに分類することができると思っています。
①立場が対等で相互のコミュニケーションがある「親子的関係」
②明確な上下関係があって、相互コミュニケーションがある「師弟的関係」
③立場が対等でコミュニケーションが一方的なものが「インストラクター的関係」
④明確な上下関係があってコミュニケーションが一方的な「教祖信者的関係」
一つ目の「親子的関係」をとる人は、学校教育や個人塾の先生に多い気がします。
大手の学習塾なら③の「インストラクター的関係」で、予備校になると④の宗教信者的関係が増えてきます。
師弟的関係は、個別指導や専門学校系の勉強に多い気がします。

僕が子供たちと関わる上で大切にしているのは、②の「師弟的関係」です。
自分自身がそういう関わり方がすきということと、今後の塾業界のニーズは、ここに注目が集まると思うからです。

これまでの学校教育について、僕は猪子寿之さんの「学校は基本的に個人プレーである」という意見に近い立場です。
一見すると集団での評価が大事にされているようですが、それはあくまで「過程」の話。
たとえば議論やディスカッション、グループ活動は大切にされるけれど、成績の評価はあくまで個人ごとに出るし、全ての科目で評価されるのはその子自身の能力です。
学校教育は「過程」が集団重視で「結果」が個人主義といえます。
一方で社会に出る(特に組織ではなく個人として)と、あくまで結果はチームプレーで評価されます。
そして反対にそこまでの過程は「ひとりひとりに何ができるか」という個人の能力が重視されがち。
つまり社会での評価は「過程」が個人主義で、結果は集団重視ということです。
そしてIT技術の発達に伴い、この傾向はますます強くなっていくと考えています。
なぜならITの発達が物理的・時間的障壁を取っ払ってしまったから。

昔ならある企業につとめ、そこで仕事をせざるを得ませんでした。
だから物理的に複数の仕事を掛け持つなんてできませんでした。
しかし今はそれが可能です。
ある仕事をしているその隙間時間で別の仕事をこなすこともできますし、そもそもネットを使えば、24時間何処でも仕事をすることができます。
僕はあるNPO法人に所属しているのですが、本部は東京にあります。
それでもSNSをはじめとするネット環境を利用して、何の苦もなく仕事ができています。
放物線の最大値を通り過ぎた現代では、右肩上がりの企業成長と人口増加が前提になっている現行の終身雇用制度や年功序列は基本的に維持することは困難になるはずです。
そうなったときに、上に挙げたようなプロジェクトごとに「個人」で参画して、その場の集団で結果を出すという仕事の仕方をできる人材が重宝されると思うのです。
で、どこからでも必要とされる「個人」とは、代替可能な知識を有した人材ではなく、一長一短があったとしても、その人の武器を備えた人(ここで言う武器は「自分のアタマで考える」力も入ります)。
で、そういった人材を育てる最良の方法が、師弟関係にあると思うのです。
図らずも昨日のプロフェッショナル仕事の流儀がそんな特集でしたが、どこかでそういう教育が求められているということなのかもしれません。

もうひとつ、僕が重視していることがあります。
それが、「ITの右脳的側面に注目する」ということです。
18才のころからかれこれ7年近く塾業界に関わっているのですが、その中で見てきた教育の「IT化」が個人的には非常に違和感を持つものでした。
どの「IT化」も基本的には無駄を省いて合理的な方向に持っていこうというものなのです。
例えば子供たちの間違えた問題番号にチェックを入れると、その子に適した問題が作成されるといったものです。
もちろんそういう方向にもIT技術は使うことができると思いますが、それはITの可能性の一方の側面でしかないと考えています。
僕はこういったITの導入を「左脳型のIT」と呼んでいます。
合理化で無駄を省き、最短経路を提示する。
問題や生徒の間違えを細分化して、そこから抽出したデータを組み合えるというのはまさに本義の方の「デジタル」です。
こうした効率化のアプローチは確かに一定の学力層の子に有効でしょう。
しかし、そこで想定されているのは「勉強をするのが前提」の子供です。
性善説」ならぬ「性学説」に基づいた考え方です。
おそらく、そういった最適化で学力(それも「数値上」の)が伸びるのはごく一部の「優秀な子」です。
そして皮肉なことにそういう「優秀な子」は教育に多くのお金を払ってくれる親の家庭にこそ多い。
だからこそ自然の流れにまかせておけば、教育におけるITの導入は合理化・効率化といった「左脳型のIT」に行くことになるのだと思います。

僕がITに最も期待しているのは、これとは正反対の可能性です。
いわば「右脳型のIT」。
データ処理をして合理化するという方向ではなく、教科書のページ制約や印刷コストから開放されたことで、極端な話、全ページフルカラーの教材を作る事だってできるようになりました。
また、紙の教科書が性質上一ページずつ進んでいかなければならなかったのに対し、デジタルならば気になった知識をタップしたらさらに詳しい情報を見ることができるという「三次元的」な教材だって作成かのうです。
そもそも紙媒体ではできない、思考過程を動画でそのままトレースするという事だって容易になったし、セルロースのような複雑な化学式なんかを3D映像で表示することだって可能でしょう。
こういった、従来の教材ではできなかった表現方法を模索することが、僕の考える「右脳型のIT」です。
この方面は子どもたちを同質のビットとして扱うのではなく、好奇心を焚き付けるきっかけを提供します。
合理化に比べてこちら方面の可能性が軽視されすぎているのではないかと思うのです。


「右脳型のIT」という部分にも繋がってくることなのですが、僕が師弟のような関係というところに可能性を見ている最大の理由は「無駄」を教えられるところにあると考えています。
ゼロ年代後半から、やたらとロジカルシンキングフェルミ推定といった「合理的」な考え方がもてはやされました。
それらの本のうたい文句は決まって「成功する人はこう考える」です。
僕はこれに非常に疑問を感じていました。
おそらく成功したと言われる人たちは膨大なトライ&エラーの中でその思考法にたどり着いたのだと思うからです。
そして彼らを彼らたらしめているのは合理的思考そのものではなく、膨大な試行錯誤の中で最終的にはそぎ落としてきた「無駄」の方にこそあると思うのです。
同じAという結論であったとしても、マニュアルをみて直線でそこにたどりついた人と、試行錯誤の結果Aという解にたどりついた人とでは対応力が違います。
論理的思考は確かに便利な能力だと思います。
特に受験や就職活動、サラリーマンの日常的な仕事に関しては。
ある定点的な結果において両者を測定した場合、たしかにロジカルシンキングを駆使した場合の方がいい結果になるかもしれません。
しかし長期的に見たときには、むしろロジカルシンキングを用いない思考を続けた側のほうが良いアウトプットをする気がするのです。
論理的思考の根本が無駄を排し客観的に導き出せる解を探ることにあるとしたら、つきつめればそれの行き着く先はみな同じ結果になるはずです。
(そもそもロジカルシンキングがそういう思想のもとに生まれた考え方です)
先に述べた「左脳型のIT」のゴールはまさにこれ。
つまり、ロジカルシンキングを突き詰めた先には、ITとの競争が待っているだけだと思うのです。

合理化・効率化がITの最も得意な分野です。
反対に最も苦手な分野は何かといえば、それは無駄を積み上げることだと思うのです。
ITは世界中の誰もがおいしいという料理を作ることは可能かもしれないが、世界中の全員を「マズイ」といわせる料理を生み出すことはできないというのが僕の持論です。
そして、人間が追い求めるのはこちら側だと思うのです。
定点では価値を帯びない「無駄」も、積み重ねれば、独自の視点を世の中に提示するための豊穣な土地になり得ます。
僕はこの膨大な無駄の積み重ねを知識の層ということで「知層」と呼んでいます。
長い年月をかけて豊かな「知層」を育めば、そこからは合理化ではたどり着き得ないアウトプットを生み出すことが可能だと思うのです。
そしてそれが進化するITとの最大の差別化要因になる。
そういった教育はできなくとも、そういった可能性を提示できる大人が身近にいるのといないのとでは子供たちのその後の気づきの機会に大きな影響を与えます。
僕は子供たちにとってそんな大人の一人でいたいと思っています。

柳田國男は調査に行くたびに、あらゆる自分の気付きを生徒に伝えたといいます。
そして言わずもがな柳田は他分野に造詣の深い知識人。
科目という極めて現代的な垣根を容易に超えて、圧倒的なカバー率を示すことのできる教育者は現在どれほどいるか分かりません。
少なくとも社会システムがそれを求めていない以上、人数はかなり減っているように思います。
しかし現代のように様々な意味で転換点を迎えているときこそ、そういう包括的な教育者の存在が必要であるのではないか。
少なくとも僕はそんな風に考えています。
ただし、僕は何処までいっても塾講師。
それでご飯を食べているし、それが好きだからやっているという節があります。
だから、あくまでその範囲の中で、あるいはその仕事を完全に全うした上で自分の目標としている柳田のような知識人的教師を目指したい。
それが僕の考えている教育だったりします。

っと、これだけくそ真面目に書いたらさすがに先週いろいろな人に影響されて帯びた熱もたいがい冷めてきました。
しかも前半と後半で筋がぐちゃぐちゃだし。。。
熱にまかせた殴り書きなので勘弁して下さい(笑)
さて、メタモン探しながら出勤しよう。