新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



2015年龍谷大学一般入試「源平盛衰記」現代語訳

赤本に全訳が載っていないので、全訳を作ってみました。
内容の背景を捉えることを第一目標としているので、直訳とは若干異なるところがありますが、ご了承下さい。

(とくに敬語に関しては、話の筋を理解しやすくするためにあえて無視している箇所が多くあります)
順次赤本に全訳が載っていない古典の文章の訳をアップしていこうと思います。

(ところどころいい加減ですがご了承下さい・・・)

 

 そもそも三位の入道頼政がこのような謀反を以仁王に勧め申し上げたのは、馬についての揉め事が原因である。息子伊豆の守仲綱の家来で東の国(関東地方)にいた者が、八カ国第一の馬を連れて伊豆に参上した。鹿毛色の馬は太くたくましく、その姿はすばらしかった。体のところどころに星の文様があったので、その馬は星鹿毛と呼ばれていた。仲綱はこれを秘蔵して飼っていた。本当にめったにないくらいに素晴らしい馬であったので、仲綱は「名馬のほかに武士の宝としてふさわしいものなど何があろうか」と言ってむやみやたらに連れ出すこともなく、木の下と名付けて大切に飼っていた。そんな折、ある人が右の大将に「伊豆の守の下に、東の国から素晴らしい馬が連れてこられたそうです。仲綱を呼び出し、園馬をご覧になってはいかがでしょうか?」と告げた。これを聞いた右の大将はすぐに仲綱のもとへ使いを送って、「本当に素晴らしい馬がいるそうで、一度見てみたい」と伝えさせた。仲綱はこれを聞いて、しばらくは何も言わず黙っていた。しばらくして仲綱は、「右の大将に御覧いただくほどの素晴らしい馬ではありませんでしたがたしかに東国から馬がやって参りました。しかし、遠方からやってきたその馬はここまでやってくるまでの足場の悪い道中で爪を欠いてしまい見苦しい様子となってしまいましたので、傷を治すため、今は田舎へと帰しております。」という返事を右の大将に伝えさせた。これを聞くと、右の大将にこの馬の存在を告げた先述の人は、「仲綱は一昨日湯で馬を洗い、昨日は馬に乗り、今朝も敷地の内で引き連れていました。」と右の大将に言った。これを聞いて右の大将は「さては私に馬を取られることを惜しんだのだろうか。」と言って、再び仲綱のもとへ使いを送った。使いは仲綱に「あなたの馬はここにいるということをある者から確かに聞きました。噂となるような名馬であるのなら、一度だけでいいので右の大将にお見せ下さい。」と言った。伊豆の守は、私だってまだ見飽きていないこの名馬を手放すのは納得できないと思い、やはり前回と同じように「そのような馬はいない」と答えたところ、右の大将は負けまいと一日に二度、三度と使いを送り、時には六度、七度送ってくる日もあったのだが、仲綱はついにその馬を差し出すことはなかった。仲綱は一首詠んだ。

あなたがこの馬を恋しく(見たいと)思うのならば、こちらに来て見ればいいのです。私の身に繋がる影と同じく一身胴体の星鹿毛を、どうして誰かのもとに放つことなどできましょうか。

 頼政は「『木の下は鹿毛色の馬である。わが身に添う影のように分かれることはできない。』とは聞こえは非常に素晴らしいが、一門は滅び、放つはずのない影をこうして放って滅びていったのです。歌に詠み負けたのだなあ」あなたの言うのは単なる美辞麗句で、現実を見なさい」と申し上げた。三位の入道頼政は仲綱を呼び出して、「どうしてその馬を右の大将の遣わさないのか。あれほどの身分の者が欲しいと言ったのならば、たとえ金銀の馬であったとしても参上させるのが当然だ。それにたとえむこうが見てみたいと言わなかったとしても、世間の常識に従うのならば、自ら参上させるべきだろう。まして、右の大将はそれほどまでに見てみたいと申し出ているのにそれをお前の惜しいという気持ちで拒んでいいはずがない。そもそも馬は乗るためにいるのだ。敷地に隠して置いていたのではどのような役に立つというのか。はやくその馬を右の大将の下に連れてきなさい。」と言われたので、仲綱はどうすることもできず、父頼政の言うとおり木の下を右の大将に差し出した。聞いていた通りに素晴らしい馬であったので、右の大将はこの馬に何人もの世話係を付けて、馬屋で秘蔵して飼うことにした。数日して、仲綱は使者を通して右の大将に「一目見てみたいとのことでしたので先日参上させた木の下をそろそろ返して欲しい。」という旨を伝えた。右の大将は木の下を手放すのを惜しんで、南鐐という馬を代わりによこした。その馬は毛色が非常に白かったために南鐐と呼ばれていた。この馬も非常にたくましく立派な馬では合ったのだけれども、木の下には及ばない。こうしているうちに、当家他家の公卿の殿上人が、右の大将の下で会合を開くことがあった。殿上人は「木の下とかいう仲綱が秘蔵していた馬がここにいるというのは本当なのでしょうか。素晴らしい馬だという評判です。見てみたいものだ。」と言った。右の大将は「その馬はこちらです。」といって、仲綱があれほどに惜しんだことを憎く思って、木の下という名では呼ばず、馬主の実名で、「その伊豆(木の下)に轡をつけて引き出して、庭乗りをさせて彼らにお見せなさい。」と言った。馬の世話をしていた者は、言われたとおりに引き出して、庭乗りなど、さまざまなことをした。右の大将は「仲綱が怖いのならばこの馬を鞭で打ちなさい。そのまま仲綱(木の下)を馬宿に引き入れてつなぎとめておけ。」と命じた。それほど(本人を馬にたとえて多くの人びとの前で辱める行為)の無礼なことであったので、程なく仲綱はそのことを耳にすることとなった。仲綱は悔しさを抱き父、三位の入道頼政の下へ行って「私仲綱は京都の笑い種になりました。平家は桓武の帝の血筋であるとは言えども、時代は流れてはや13代になります。昔はちょっとした国の受領さえも許されなかったのが、この頃では一族の力をあれほどまでに大きくしてきました。それに比べれば私たち源氏の家柄は彼らと比べることなどとうてきできるものでもありませんが、一時の幸運によって、源氏と平家は官位・官職の低い高いの差ができる程度になりました。右の大将宗盛の言葉が憎かったのですが、彼が私に下した『木の下を私に見せよ』との命令に背くこともできず、私はその馬を宗盛の下へ遣わしました。たとえ右の中将宗盛が心の中では私のことを憎んでいても、馬を渡したことに礼を言うべきであるのに、それを宗盛は酒宴の席で『仲綱に轡かけよ、仲綱怖くは鞭で打て、仲綱の背に乗れ、仲綱を馬小屋に引き入れよ、仲綱をつないでおけ』などと、私の大切な馬を私の名で呼び侮辱したのです。宗盛が私に行ったこうした仕打ちは今生の恥でございます。弓を取るほどの恨みは、これを除いてあるでしょうか。今のように平家が大手を振るう時世では、私が反旗を翻したとしても甲斐のないこと。それならば私は宗盛の宿所に行って戦い討ち死にするか、武士を辞め仏道に身をささげるしかありません。」と言って、はらはらと悔し涙を流した。父の三位の入道頼政はこれを聞いてそれほどまでに遺恨に思ったのであろうか。冒頭の謀りごと(平家追討の策略)を宮に申し勧めたのは、また後のお話。

 

 

 

龍谷大学・龍谷大学短期大学部(一般入試) (2017年版大学入試シリーズ)

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