新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



2010年京都産業大学一般前期2月4日「蜻蛉日記」現代語訳

赤本に全訳が載っていないので、全訳を作ってみました。
内容の背景を捉えることを第一目標としているので、直訳とは若干異なるところがありますが、ご了承下さい。
(とくに敬語に関しては、話の筋を理解しやすくするためにあえて無視している箇所が多くあります)
順次赤本に全訳が載っていない古典の文章の訳をアップしていこうと思います。

 

こうして、母の葬儀のためにしなければならないことをあれこれと行ってくれるひとも多く、全てし終えてしまいました。今は一同閑散とした山寺に集まって、することもなく時間を過ごしておりました。夜には眠ることも無く泣き暮らしつつ、ふと山の方を見れば、霧が山の麓まで立ちこめておりました。母を失って京に帰ったとしても、いまさら誰を頼ればいいのでしょう、頼りにする場所など私にはあるはずもありません。やはりここで死のうと思うのだけれど、私を生かそうとする人々がいることがつらく感じます。
 そうこうするうちに、7月も10日過ぎになりました。僧たちが母の供養のための念仏をする間に話していたこと偶然耳にしたところ、こんなことを話しておりました。
「亡くなった者をはっきりと見ることができるところがあります。しかし、そこは近づけばそこはたちまち消えてしまうそうです。遠くからみることならできるのだとか。」「それはどこにある国なのですか。」「みみらくの島と言うそうです。」
僧たちがそんな風に語るのを聞いいて、私はたいそうそこを知りたく思い、また母を思うと悲しくなって、こんな風に詠んだのです。
「せめて母がそこにあるということだけでも見ておきたいのです。みみらくの島よ、もしその名前の通り私たちの耳を楽しませてくれるというのならば、私に母のことを聞かせてくれ」
こう詠んだのを弟が耳にしたようで、泣きながらこう返してきました。
「どこかにあると噂で聞いたみみらくの島に、亡くなった母を求めて会いに行きましょう。」

 里に帰ろうと急いでいるわけではないのですが、私一人で決められることではありませんので、今日、集まった者たちはみな住まいに戻ることになりました。ここに来るときは私の膝に臥した母がいて、なんとか安らかに過ごしてほしいと思っておりました。道中は母の看病で汗を流しながらも、さすがに死ぬことは無いだろうと思って、どこかで安心しておりました。それが今回はたいそう気持ちが軽く、驚くほどにくつろいで載ることのできる牛車であるため、それがいっそう私に母を失った悲しみを感じさせるのです。
自宅に戻って車から降りてみたのだけれど、全くなにも考えられないほどに悲しみが込み上げてきます。母と一緒に集めた花々は母が病床に臥してから手付かずになっていたのですが、それらは生長していっぱいに花を咲かせております。母のためにしなければならない特別な供養も周りの人びとが執り行ってくれたため、私はただ母との想い出の庭の草をみながら、ただ古今集にある「ひとむらすすき虫の音の」が口をついてでてきました。
「これといった手をかけてやった分けではないのに花がいっぱいにさいたことだなあ。これも全て母の残していった命の恵みなのでしょうか。」
そんな風に詠みながら、私は母のことを想っておりました。

 

アイキャッチ京産大の過去問