新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



汚部屋美人はなぜ直らない!?子供に部屋を片付けさせる方法とスマホバキバキ問題について

例えば、吐き出したばかりの唾を吸い戻してくれと言われて、躊躇わずに出来る人は殆どいないと思います。

僕はこの「吐き出した唾は汚い」問題には、色々な物事を説明する真理があると考えています。

 

「口の中にある唾は汚いとは思わないのに、それを吐き出した途端に僕たちはそれを汚いと感じる。」

何の本かは忘れましたが(確か「バカの壁」か「唯脳論」)、養老孟司さんが言っていた言葉だったと思います。

部屋がどうしても片付けられない人について説明するときに、この「唾はきれいか」問題が非常に役に立ちます。

僕も大概部屋がグチャグチャな人間なので、部屋が片付けられない、即ち汚部屋オーナーの気持ちはなんとなく分かります。

彼ら(僕ら)にとって、部屋は唾における口の中と同じ位置付けなんですよね。

つまり、彼らにとって、部屋は身体の延長的な位置付けであるという認識なのです。

 

これまた出典が曖昧で申し訳ないのですが(確か「ちぐはぐな身体」だったと思います)、鷲田清一さんが身体とは何かについてかなり納得させられる説明をしてくれていました。

スポーツ選手にとって、使う道具は自分の体と遜色ない感度で操作することができます。

例えば、テニス選手ならば、ラケットに伝わる振動などから様々な情報を受け取るかもしれません。

また、身体障害者の人にとって、普段の生活で「足」として使っている義足は、まるで本物の足の用に使えて、実際にそこから多彩な情報を読み取っています。

それならば彼らにとって義足は身体の一部として充分機能しているのだから、身体として考えた方がいいのではないのだろうか。

確かこんなことが書かれていたと思います。

 

鷲田清一さんの組織として繋がっている部分にとどまらない拡張した身体という見方と、養老孟司さんの自分の内側にあるうちは僕たちは汚さを感じることはなく、外に切り離れた瞬間から汚いものと認識するという話をつなぎ合わせて、汚部屋オーナーの胸中を考えてみることにしたいと思います。

まず、汚部屋が気にならない人にとっては、自分の部屋=自分の身体の延長に近い感覚なのだと思います。

そして、自分の身体の一部なのだから、その中が多少汚くとも気にならない。

この感覚って、部屋を身体の延長的に捉えていない人には絶対に理解できないことだと思います。

自分と世界の境界線が物質的なカラダの範囲である人間にとっては、自分の部屋は自分の「外」にある存在です。

だから、そこはきれいにする。

一方で、部屋を片付けられない人にとっては部屋はカラダの延長で、家のドアが外の世界との境界になっているわけです。

僕の母は綺麗好きで、高校時代によく「部屋がきれいだと気持ちがいいでしょ」と言われ片付けをさせられたのですが、僕にはその感覚が全く分かりませんでした。

部屋の入り口が身体の境界線というような認識をしていた僕にとって、部屋がきれい=気持ちがいいはそもそも持ち得ない感覚だったのだと思います。

「それならあなたは口の中の唾が汚いって言って必死に口をゆすぐの?」くらいの感覚。

汚部屋オーナーと綺麗好きの間では「部屋」といものの認識の時点で既に噛み合っていないのです。

 

こんな具合に部屋が汚い理由に対してひたすら屁理屈を並べて部屋を片付けなかった僕ですが、先生をするようになって子供たちから部屋を片付けられないという言葉を聞くと、さすがに汚部屋側にたつのもいかがかと思うようになりました。

で、部屋を片付けないことに対して屁理屈を並べるのなら、部屋を片付けなければならない理由も屁理屈で考えてやれと思ったのが去年の秋。

というわけで僕は今、屁理屈で固めて部屋を片付けなければならない理由を子供達に説いています(笑)

子供達を納得させる際、僕はまず自分の物はどう扱っても構わないということを話します。

そこに共感を得た上で、「自分の部屋」は誰のものかという話をするのです。

「自分の部屋」の利用者は紛れもなく自分ですが、所有者は違います。

賃貸の住まいなら大家さんのものですし、自分の家であっても所有しているのは基本的に父親あたりの大人です。

つまり、日頃僕たちが思っている「自分の部屋」は、自分の部屋という名の父の所有物であり、そこにあるのは父の所有物の一部を好きに使わせてもらっているという関係なのです。

僕たちが友達に貸した漫画がボロボロになって帰ってきたら怒るように、親にとって自分がお金を出した建物が壊されると腹がたつこと同じように、親の所有物である「自分の部屋」が汚されるのはそれだけ腹立たしいことなんだと伝えます(笑)

これが、僕たちが注意する立場になった時に考えた部屋を片付けなければならない屁理屈です。

 

話を一体どこに落ち着けたいのか分からなくなってしまったので、一度身体性の話に戻ります。

少し前にスマホのディスプレイがバキバキの人の話をニュースで見かけました。

バキバキのディスプレイで平気な理由が分からないというもの。

多分これもその人にとってスマホがどういう位置付けであるのかに由来しているのだと思います。

スマホのちょっとした数も許せない人は、スマホを身体の境界線の外側として捉えているだけでなく、「自分らしさ」を保管するアクセサリーとして捉えているのでしょう。

だから、そんな「理想の自分を表す装置」の1つがバキバキであるなんて理解ができない。

それに対してスマホがボロボロでも気にならない人は、スマホを身体の延長として捉えている。

転んで手にアザができたのを受け入れているのと同じく、スマホが傷ついていてもまあ仕方がないと考えているのだと思います。

少なくとも、直しに行って自分のスマホを何日も手放すのより、今のままの方が安心するという感覚。

この場合もそもそもの認識がまるで違うのでお互いに理解などできません。

汚部屋問題、スマホバキバキ問題について語る時は、そもそも相手にとっての部屋やスマホの位置付けが自分とは異なるということを前提知識として知っておかなければならないとおもうのです。

 まあそもそも理解してどうなるんだという話ではあるのですが。。

 

アイキャッチ養老孟司さん「唯脳論

 

唯脳論 (ちくま学芸文庫)

唯脳論 (ちくま学芸文庫)