新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



2017年京都産業大学一般入試本居宣長「紫文要領」現代語訳

 今年度入試で出題された、古文の現代語訳速報です。

仕事の合間に急いで訳しているので、細かな違い(時に大きな読み間違えがあるかもしれません..)はご了承下さい。

また、あくまで話の筋を追うことを第一に訳しています。

そのため、文法事項や敬語はあえて無視しているところがあります。

随時アップしていく予定ですので、よかったらご参照下さい。

 

問題

次の文章は『源氏物語』蛍の巻で、玉鬘と源氏の間に交わされた「物語」についての会話を本居宣長が解説した『紫文要領』の一節である。『源氏物語』では、はじめ源氏は物語に夢中になっている玉鬘をからかって、物語をけなすようなことをいうが、むきになって物語を擁護する玉鬘に、改めて自身の物語についての考えを述べる。読んで、後の問いに答えよ。

 

 

 さて、以前に源氏は物語のことを「嘘をよく付きなれた人の作ったものでしょう」と言いましたが、ここには源氏なりの持論が隠れています。その答えはこうです。物語はいかにも嘘のようではあるけれども、現実でまったく起こっていないことではありません。そこに描かれるのは、全て世の中で起きていること。ある人のことを名指しでありのままに言っているわけではないけれど、全てが現実に起こったことで、良いことや悪いことで目や耳にあまった出来事を、後の世界にまで語り継ぎたいと思いが心の中で抑えきれなくなって、それを作り物語に託して書いたものなのです。それならば、物語は嘘でありながら嘘とは言い切れないということになりましょう。
 さて、人びとは源氏物語に書かれたことを勧善懲悪の筋書きだと思うそうだけれど、それは浅い解釈であり、紫式部が込めた本心ではありません。たとえを挙げて紫式部の本心を言うのであれば、日常生活の中でめったに無いことや不思議なことを見たときに、自分の心の中でだけひっそりと「不思議だ、珍しい」だなんて思っていられないでしょう。そのようなことに出会ったり、聞いたりすれば、人に語って聞かせたいものなのです。このことを思い出して、紫式部の本心を考えてみてください。たとえ人に語ったとして、自分にも人にも何の役にも立たず、また、自分の心のうちにしまっておいたところで何の不都合もないのでしょうが、これは珍しいと思い、これは恐ろしいと思い、いとおしい、趣深いと感じ、うれしいと思ったことは、心の中で思っているだけではすまないもので、必ず人に語らずには居られないような代物なのです。世の中に溢れるあらゆるものを見たり聞いたりして心が動いて「これは!」と思うものはみなここに漏れません。詩歌を歌わずにはいられないという気持ちも、これと根っこは同じところにあるのです。
 さて、見たり聞いたりして、珍しいとも不思議とも、趣深いとも恐れ多いとも、そして慈しみや趣深さを感じたともわかりませんが、何かしらたものに心が動いたときは、その見たり聞いたりしたものを心の中で思っているだけではいられなくなって、人に語り聞かせるものなのです。それは語ることも物語として紙に書くのも同じこと。さて、その見たり聞いたりしたものに対して「あはれ」や「かなし」といった感情が生まれることを、心が動くというわけです。その心が動くことこそが正に、「もののあわれ」を知るということなのです。その点から見れば、この作品は「もののあわれ」を知るものというほかありません。作者の本意が「もののあわれ」にあるのであれば、見たままを忠実に書くのに満足せず、まら聞いたこと以上の物語に仕立て上げるのも、それを読んだ人に「もののあわれ」を伝えようとするためであるということを、この源氏と玉蔓のやりとりから悟るべきでしょう。

 

 アイキャッチ源氏物語の漫画「あさきゆめみし