芸術こそ学問が不可欠ではないかというお話
ここ最近藤原和博さんの話術、というか会場の人たちを巻き込む話し方を真似したく、四六時中彼の公演動画を見ています。
(そのせいで、先週やったNPOのイベントの司会がやたら「先生」っぽくなってしまった 笑)
そんなわけで片っ端から彼の公演動画を漁っているわけですが、そんな風にしている中で1つ気になる動画に出会いました。
それは、藤原さんとのトークセッションの中で下村元文部科学大臣が新しい学習指導要領の話を東京芸術大学の学長としたということで話したエピソードです。
下村さんは、確かに基礎学力は大切だけれども、芸術分野には学力では測れないものがあるのではないのか?というような話をしたとのこと。
基本的に僕は下村さんは好きですし、これは決して批判ではないと断りを加えておきたいのですが、その上で下村さんのこの発言を見て、多分この人は芸術畑の人ではないのだなあと感じました。
というのも(これはあくまで僕だけの見方なのかもしれませんが)芸術は極めて「学問的」だと思うからです。
たとえば、あらゆる絵画をみていると、しっかりと人間の骨格を「解剖学」的に見ていることがわかります。
実際にレオナルドダヴィンチは絵を描くために解剖学を学んでいるほど。
ピカソをはじめ、相当崩している人たちでさえも、正確な認識をした上で自分の解釈を加えています。
武道でいうところの守破離の世界です。
音楽の世界でも同じです。
バッハの平均律はもちろんのこと、一流のアーティストの人たちは「音」を極めて学問的に捉えています。
たとえば、指揮者やピアニストなインタビューをみると、度々「倍音」という言葉を見かけますが、これは物理の「波」のお話です。
あるいは、ロックミュージシャンの志磨遼平さんはロックについて、その歴史的に辿るとともに、そのリズムの乗せ方について、極めてロジカルに説明していました。
もちろん直感的なインスピレーションこそ芸術であるという人や、ウォーホルのそれまでにない価値観の提示こそが芸術であるという考えもあると思いますが、それだって緻密な解釈の上に存在するものであり、背景には、極めて豊富な知識や学問が潜んでいるように思うのです。
もちろん、芸術家の人には学校で習うような広く浅い知識なんて必要ないかもしれません(そしておそらく下村さんはここを以って先の発言をしたのだと思います)。
ただし、それは全くもって学問的な知識がいらないというわけではなく、寧ろ単元によっては普通の受験をする人よりも遥かに知識をもっていなければならないかもしれません。
芸術という言葉を聞くと、どうしても感性や直感の産物であるように聞こえてしまいがちですが、実際は極めて論理的。
新しい美の価値観を提示するためには、それまでの作品の意味を正しく理解しておく必要があり、そのためには勉強が不可欠です。
だから、芸術に勉強は必要ないみたいな言葉をみると、本当に?と思ってしまうわけです。
むしろ、芸術こそ勉強かなあと。
スポーツとは違って、あまり語られない芸術分野ですが、むしろ勉強と非常に親和性が高いのが芸術であるような気がします。