新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



七夕なので、和歌をテーマにしてAIについて考えてみた

狩り暮らし たなばたつめに 宿借らむ 天の川原に 我は来にけり

―狩をして気がつくと日が暮れてしまった。ここは天の川という名前の土地のようだから、織姫に頼んで宿を借りようか。―

一年に 一度来ます 君待てば 宿貸す人も あらじとぞ 思ふ

―織姫は一年にたった一度だけ会うことのできる彦星を待っているのですから、私たちに宿を貸してなどくれないのではないですか。―

(現代語訳は僕のオリジナルで、かなり意訳してあります。)

七夕になると、伊勢物語のこの和歌を思い出します。

(たしか)天の川という土地にやってきて狩を楽しんでいた、惟光の皇王たちの読んだ歌です。

文法を説明するときに、「これでなければならない理由」もないため、めったに引用することはないのですが、結構僕のお気に入りだったりします。

7月7日に七夕を思い出す。

そういう生産性や合理的思考では割り切れない「ムダ」を楽しむことって、特に合理化が進む世界で価値を生み出すことを考えたとき、長期的に大きな差別化要因になると思っています。

 

かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜もふけにける

―かささぎが集まって架けた真っ白な橋のように、星たちが集まってまるで銀色の橋が架かったようにみえる空を眺めると、夜がふけたことを実感するなあ―

(先と同じく、現代語訳はかなり意訳してあります)

七夕と聞くと、百人一首の中に収められているこの歌も思い出します。

一見?一読?すると七夕とまるで関係のないこの和歌。

しかし、この歌にもしっかりと「七夕」が織り込まれています。

初句と2句に書かれている「かささぎの渡せる橋」とは、一年に一度、七夕の時期に対岸で互いを思う織姫と彦星が会うために、神様がかささぎをつかって二人のために川に渡してくれる真っ白な橋のこと。

つまり、冒頭の「かささぎの渡せる橋」は単なる霜の降って真っ白な橋の比喩ではなく、織り姫と彦星のエピソードを組んだこちらがメインということになるのです。

それを踏まえて改めて訳すとしたら、「今は冬なのに、まるで織姫と彦星を引き合わせるためにかかるあの橋のような真っ白な橋を星たちが作り、その事が私に夜が更けた事を感じさせるなあ」といった感じになります。

 

先日、知人に相談に乗ってもらったときに、話の流れでAIの話になったのですが、僕はAIが自分たちの環境に溶け込んだときの僕たちがあるべき姿は、上に挙げたような和歌に対峙する姿勢に近いのではないかと思っています。

「事象」をどう解釈するかの部分は(合理的結果から導き出されるものは別として)昔も今もこれからも、ずっと僕たちにしかできないことだと思うのです。

今日、AIは急激な速度で技術が進歩していて、まるで僕たちと同じように思考して解を導いているように見えるアウトプットを出すものも出始めていますが、あくまでその判断は膨大な集合知から導いた「最適解」に過ぎません。

たとえばGoogle翻訳にしても、AI自らが感情を持って「こうあるべき」という意訳を道いいているのではなく、「Xの場合は多くの人がYという訳にしている」という集合知から「人間らしい」意訳を創出しています。

かりに人間と人工知能で同じ訳が生まれたとして、その生み出したプロセスは全く異なるものです。

「私は〇〇だ。」と「私が〇〇だ。」の違いを区別することは機械にできても、そこで生じる受け手への印象を「感じ取ること」は機械にはできません。

単なる記号としても文字列に文脈という意味を見出し、その背景に思いをめぐらすのは獏たちにしかできないと思うのです。

 

僕はAIの問題はここに集約されると思っています。

例えば、上に挙げた「かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜もふけにける」という和歌の訳に関してですが、「かささぎの渡せる橋」はどう解釈しても文字情報の上では「七夕」とは結びつかないのです。

明らかにそこから読み取ることができない情報を加えるのは、情報処理型の考え方ではご法度です。

仮にAI(のようなものに)僕の現代語訳を添削してもらうとしたら、恐らくかなりの低評価になるはずです。

あるいは、小林一茶の「手向くるや むしりたがりし 赤い花」という俳句を例に考えてみるとより明らかです。

この俳句には、亡くした自分の娘に対する一茶の悲しみが読まれています。

しかし、現代の僕たちの文化背景では、どうやったってそんな解釈にはたどり着けません。

これがどれほど悲しみを含んだ歌であるかを味わうためには、一茶が詠んだ当時の「時制」の概念のこちら側が理解し、その範囲で解釈をなさねばならないのです。

(細かな解釈を書くと長くなるので、興味を持って頂けた方がいらしたらこちらをご覧くださいシードゼミ - 「手向くるや むしりたがりし 赤い花」 小林一茶の詠んだ句の中で、僕が最も好きな詩です。... | Facebook)

やはりこちらもAIには難しいのではないかなと思っています。

 

ITやAIが当たり前の環境になった未来を見据えるといったときに、多くの人がAIそのものを知ろうとしますが、むしろ僕たちは反対方向の、極めて人間的な部分に目を向けるべきだというのが僕の意見だったりします。

落合陽一先生が、(たしか)魔法の世紀という著書の中で、「人々はパソコンの中でどのような処理が起こって目の前の現象が起こっているかなんて気にせずに、当たり前のようにそれを利用している」と言っています。

AIに関しても、それ自体の見識を深めてどうやって勝つかみたいな議論ではなく、それが広がった世界を想像し、そこで必要なものを磨くべきだと思うのです。

で、僕なりに競争力になると思うのが「感情」と「文化」という言語化した時点で陳腐化する無形物。

もちろん電極を頭に刺して、感情を電気信号として集積するみたいなことをすれば、そこもAIの領域になるかも知れませんが(笑)、裏を返せばそうでもしない限り、最大の差別化要因として残るように思います。

僕が考えるその一例が上に挙げた和歌の訳なのです。

 

七夕をテーマに書こうと思ったのですが、最近吸収した内容に影響されすぎてしまいました(笑)

 

アイキャッチは落合陽一先生の『魔法の世紀』

 

魔法の世紀

魔法の世紀