新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



2013年龍谷大学一般入試「今鏡(藤波の中 飾太刀)」現代語訳

内容の背景を捉えることを第一目標としているので、直訳とは若干異なるところがありますが、ご了承下さい。
順次赤本に全訳が載っていない古典の文章の訳をアップしていこうと思います。

※因みに過去問は東進の大学入試問題過去問データベース から入手可能です

 

富家の入道、藤原忠実のご子息は、長男が法性寺の太政大臣で藤原忠道、次男は宇治の左の大臣で藤原頼長と言いました。

ご令嬢は高陽院と呼ばれ、泰子の后という名で、法性寺(忠道)殿とは同じ母を持つ姉という関係でありました。

たしか齢40のころだったでしょうか、高陽院は長承3年3月に、后となり、その後保延5年に、院号を与えられたのです。

 

頼長は確か土佐守盛実の娘を母に持っていた者であったと記憶しておりますが、彼は見た目も素晴らしく、多方面にわたり、優れた才を発揮しておりました。

堀河大納言から、『前漢書』という書を引き継いでおりました。

その書は堀河大納言が匡房の中納言から伝えられ、その後に伝える人が現れずにいたのを、頼長が引き継いだのでございます。

今はその伝えも絶えてしまいました。

頼長はこのように、様々な書物に造詣が深く、『因明』という名の、僧が読むような本までも、奈良の僧たちをたどり、読んでいたと聞いております。

詩歌管弦を披露する場では笙の笛を演奏したそうです。

書をお書きになるときは、わざといい加減にお書きになったのでしょうか。

兄の法性寺(忠道)殿に自分の筆跡が劣っているから比べられたくないというそぶりをしていたのを見て、 法成寺(忠道)殿は、「私は漢詩も作るのに、それならばお前は漢詩をお作りにならないほうがいいだろう」とおっしゃったとかうかがいました。

法成寺の焼けてしまった塔を修理しなさるときも、滞りなく進め、日記等にも広く精通しておりました。

 

一方、性格は自分に対しても相手に対しても大変に厳しいものでした。

行事を行うときは伝統を好み、上達部で公式の席に現れないものに対してはみな呼び出し、時には道で会う人に厳しく叱責することもあったと評判でした。

公事を行うときは、遅れてやってきたものや用事で出席を拒むものがいれば、家を焼き払ったほどであるそうです。

奈良に済円の僧都という名僧がおり、彼が公事への出席に出席できないと伝えたときは、京にある彼の宿坊を壊したほどです。

済円の僧都には仲胤の僧都という盟友がいて、2人は日頃から歌合いの場などで「お前こそが鬼だ」と言い合うような仲だったのですが、仲胤が「済円が公事を断ったら宿坊を壊された」という話を聞いて、済円の元に

(和歌)本当にあなたの家を壊したような人がいるのだとしたら、それはあなたに勝る鬼のような人であるようだなあ

と読んで送らせたのだそうです。

(中略)

 父の富家殿と法性寺(忠道)殿の親子の間柄は、最後にはよくないものになってしまい、父は頼長を鳥羽院とともに引き立てて、藤原家の長男の位を授けてしまいました。

加茂の詣でなどは本来最高の権力者がするものなのですが、頼長は兄の殿を差し置いて参拝をし、また藤原家の本流である東三条殿をも手に入れてしまったと聞いています。

法性寺(忠道)殿と頼長殿が並んで内覧の宣旨などを受け、帝のお供をしていました。

こうした時期に鳥羽院はお亡くなりになって、讃岐院と頼長殿が策をめぐらせて、後白河院が位にいるときに、大炊の御門殿で戦が起こしたのですが、帝の守りも強く、頼長殿は馬に乗り前線に出ていたときに、誰が討った矢だったのだろうか、頼長殿に当たって、奈良まで逃げた辺りで、ほどなく息を引き取ったのでした。

 

 

今鏡 (上) (講談社学術文庫 (327))

今鏡 (上) (講談社学術文庫 (327))