新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



RADWIMPS「おしゃかしゃま」考察~仏教的・キリスト教的世界観を「解く」~

ここ最近、宗教にハマっています 笑
といってもヤバイ感じの意味ではなく、純粋に物語として興味を持ったという意味です。
神教、キリスト教、仏教、イスラム教etc..と好奇心の赴くままに本を読み漁っているのですが、そんな中でふとRADWIMPSの『おしゃかしゃま』を思い出しました。
おしゃかしゃま』が発表されたのは僕が学大学1年生だったころ。
その時は単に神様の位置に人間を置いた人類の文明批判の歌くらいの印象でした。
しかし、改めて歌詞を見ると、キリスト教的な世界観と仏教的な世界観が混在していて、非常に面白い作品だと思うのです。

この歌の歌詞を見ていくと歌詞の中に仏教的な考え方とキリスト教的な考え方が混ざって登場します。
歌詞を追っていくと1番でAメロが3回繰り返され、その一度目は〈~けど人類は増えても増やします〉というように、人間中心主義について歌われます。
続いて2回目のAメロでは崇め奉っていた神のように人類が振る舞い始めたと歌われていますが、まずは「神」に関する具体的な表現だけを追っていきたいのでひとまずここは無視。
3回目のAメロで神に関する具体的な表現が出てきます。
〈僕は見たことはないんだ あちらこちらの絵画で見るんだ さらに話を聞いてる神様はどれもこれも人の形なんだ〉
このフレーズから『おしゃかしゃま』のこの時点で述べられる神は、多くの絵画でモチーフとして扱われたもので、人の形をしているということがわかります。
宗教画といって最初に思い浮かぶのはやはり、聖書の内容をテーマにした作品でしょう。
実際に「創世記」では神は自分に模して人を作ったとされており、また続くBメロで最後の晩餐などで有名な「ダヴィンチ」という名前も出ているので、ここはキリスト教的な神を想定するのが妥当でしょう。

〈来世があったって 仮に無くたって だから何だって言うんだ〉
1番のサビの段階で「来世」という死生観に言及します。
死んだら生まれ変わるという輪廻転生の死生観を持つのは、完全に欲望を捨て解脱できるまで何度も生まれ変わるとされる仏教です。
一方でキリスト教では死ぬと魂は天国か地獄か煉獄に行くとされています。
〈来世があったって 仮に無くたって〉という表現は、仏教的な死生観に立ったとしても、キリスト教的な死生観に立ったとしてもという意味で読むことができます。
次の〈生まれ変わったって 変らなくたって んなこたぁどうだっていいんだ〉という歌詞も基本的には前と同じ。
どういう世界観に立つかは関係なく、欲望を貪欲に追い求めるのが人間だと歌います。

〈もしもこの僕が神様ならば〉と始まる2番のAメロはキリスト教の世界観で描かれます。
〈7日間で世界を作る〉というのは創世記に書かれている神が世界をどう作ったかというエピソードのこと。
仏教における天地創造は阿毘達磨倶舎論(あびだるまくしゃろん)の中に書かれており、仏教は本来創物主や絶対神のような存在を持っていないとされています。
仏教的な世界の形成をものすご~~~~くざっくりと書けば、初めに何も無い空間にカルマが働きかけることで微かな風が起こり、それが次第に大気の層のようなものになり、その上に水の層ができるとされます。
そうしてできた水の層にカルマによる風が吹くと、さながらミルクに張る「膜」のように新たな黄金の層ができ、それが大地になったとされます(キリスト教との違いを指摘するために簡単に挙げた説明ですので、細かな部分の間違いや説明不足はご容赦ください)。
このように仏教の世界観では神が世界を作ったとはされていないので2番のAメロはキリスト教について述べていると考えるのが妥当です。
続く〈増やして減らして~だから1,2,3で滅んじゃえばいいんだって〉という部分も恐らくノアの箱舟について書いたもので、これもキリスト教的な世界観を描いています。

Bメロに入ると再び仏教的な世界観が登場します。
〈馬鹿は死なないと直らない なら考えたって仕方がない さぁ来世のおいらに期待大 でも待って じゃあ現世はどうすんだい〉
ここではっきりと「現世」「来世」という言葉が出ていることから、仏教的な世界観の話であると分かります。
そして2番のサビ、Cメロ、最後のサビに続く。

上で見てきたように、『おしゃかしゃま』の歌詞は仏教的世界観とキリスト教的世界観が交互に出てきて、その合間で人間の愚かさを描きます。
では、一体この歌を通して作者の野田さんは何を言いたいのか?
この曲に関して、パッと聞くと人間の愚かさを歌っているようにも聞こえますが、僕はもう少し違う意図があると考えています。
ただの文明批判なら、キリスト教と仏教を両方出す必要はありません。
むしろ仏教的な考え方を入れてしまえば、神の位置に人間を置き換えることによって発達したされる近代を否定しづらくなってしまう。
僕は野田さんがあえてキリスト教も仏教も持ち出してきた理由は、どちらの宗教でも語られる考え方そのものに対する問題提起の意味があると考えています。
仏教では来世でよりよく生まれ変わる、果ては欲を捨て解脱するために今を清く生きることを、キリスト教では死後の世界で天国に行くために正しく生きることを説きます。
どちらも死後のために今の行き方を示すという点では共通しているといえます。
一方でそれは、今は将来のためにあるのだと割り切って苦しみに耐えるということで、多くの人間はそんなに強くないし、目の前で困難にあった人を必ずしも救えるとは限りません。
野田さんはこの曲を通して、来世や死後の世界を信じて生きられない強くない人間がどう生きたらいいのかという不安や怒りみたいなものを表現したかったのではないかと思うのです。

先ほど飛ばしたCメロと最後のサビを見てみます。
〈ならば どうすればいい? どこに向かえばいい いてもいなくなっても いけないならばどこに〉
〈来世があったって 仮に無くたって だから何だって言うんだ〉
〈天国行ったって 地獄だったって だからなんだって言うんだ〉
ここには、仏教の神もキリスト教の神も将来のことを導いてくれているけれど、多くの人たちにとって肝心の「今」はどうしろというのだという不満や不安といった感情が書かれていると解釈することができます。
この曲が発表された2009年はITバブル後、リーマンショックで暗い空気が漂っていたとき。
おしゃかしゃま』には、「未来のために今を生きる」ではなく、「今を乗り切るため」の方法を教えてくれという心の叫びのようなものが込められているように思うのです。

 

アイキャッチは『おしゃかしゃま』が収録される「アルトコロニーの定理

アルトコロニーの定理

アルトコロニーの定理