新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



僕たちは場に立たせようとする人に牙を向く

テレビの最大のタブーは特定の芸能プロダクションの批判でも韓国批判でもスポンサーの批判でもなく、視聴者をバカにすることである。

大分前に岡田斗司夫さんが自身の番組で語っていた言葉なのですが、本当にその通りだと思います。

芸能人プロダクションの顔色を伺うのは、芸能プロに権力があるからではなく、視聴者の関心のある芸能人を提供してもらえなければ困るから。

お金を出してくれるスポンサーも確かに大切ですが、そのスポンサーがお金を出してくれるのは、テレビが「視聴者」という商品を持っているからです。

テレビは出演者に拒否されても、スポンサーに離れられてもビジネスモデルは維持できますが、視聴者を敵に回して誰も見なくなってしまえばモデルが壊れてしまうんですよね。

だから、視聴者をバカにすることは絶対に避けなければないことなのです。

 

僕の大好きな言論人に、今回の選挙戦に関して投票を棄権するという署名をしたことで絶賛炎上中の東浩紀さんがいます。

僕は今回の炎上に関して、根っこのところには上に書いたテレビにおける最大のタブーと同じ構造が見られるのではないかと思っています。

政治に関して、様々な主張や様々な批判を目にします。

そのほとんどで、批判の矛先歯は政治家やメディアといった「権力」に向いています。

様々な意見を述べている「僕たち」は、そのフィールドに立っていません。

ところが東さんの主張は違います。

あくまで僕の解釈なので、東さんの言わんとするところと違うかもしれませんが、東さんは選挙を集団で棄権することによって国民が今の政治に辟易としていることを示そうといっています。

ここには政治に対する自分たちの意思表明と同時に、選挙というルールそのものを疑ってみたらどうなの?という、国民に対する問題提起も含まれています。

 

僕は東さんの今回の主張が、政治家でもメディアでもなく僕たち自身を対象としている点で他の選挙に関する意見とは決定的に異なっていると考えています。

東さんの選挙棄権の呼びかけは、選挙に行って投票することが「当たり前」だと思っている僕たちに対して、そもそも「選挙に行くこと」を疑ったらどうなの?と言ってきているのです。

やや大げさに言えば、僕たちの投票態度に対する「批判」と考えることもできます。

また、ただ投票という行為は選択肢の中から選ぶだけなのに対し、投票を棄権するというのは自らの意思を表明しなければなりません。

投票は「審査員」でいられるのに対して、棄権は「プレイヤー」にならなければいけないのです。

僕たちに「お前ら前提を疑ってみることくらいしたら?」と言った上に、審査員というある種責任の生じない安全な位置であることを降りさせプレイヤーになることを求める。

もちろんそんな風に考えて東さんを批判している人は多くないと思いますが、少なからずそうした「雰囲気」を無意識に嗅ぎ取って気を逆立てているというところはあるのではないかと思うのです。

 

アイキャッチ東浩紀さんのゲンロン0

ゲンロン0 観光客の哲学

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