新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



連載マンガは処女作と2作目を比較することで作家性が見えてくる?

最近マンガ家の処女作と2作品目を比較することにはまっています。
いろいろなマンガを読み比べているのですが、その中でも『脳嚙ネウロ』と『暗殺教室』の松井優征先生と、『アイシールド21』と『Dr.STONE』の稲垣理一郎先生が圧倒的に面白く感じます。
東村アキコ先生の場合『海月姫』の蔵之助や『東京タラレバ娘。』のKEYというように、たいていのマンガで恐らく作者が自分自身を投影しているのだろうなという共通の特徴を持ったキャラクターが登場します。
松井先生の場合『脳嚙ネウロ』のネウロと『暗殺教室』の殺せんせーに「圧倒的な能力を備えた異形の者」として登場し、稲垣先生だと『アイシールド21』の蛭魔妖一と『Dr.STONE』の千空に「合理的で偽悪的だけれど、裏では努力家で仲間思いな奴」という形で登場します。
正直、両先生が自分を投影させている(と僕が勝手に思っている)性格は、それほど一般ウケするものではありません。
どちらかというと理解されにくい、少なくとも主人公には向かないタイプのキャラクターです。
それを承知していたからこそ、両作者ともこうしたキャラクターを主人公を助けるサポートキャラとして忍ばせることにしています。
一方で松井先生も稲垣先生も2作品目では堂々と自分を投影しているキャラクターを主人公にして、設定の工夫で魅力的なキャラクターに昇華させています。
1作目と2作目を対比させると、このことが如実に表れているようで面白いのです。

「師」としてのネウロと「乗り越える存在」としてのころせんせー

まず、松井優征先生の『脳嚙ネウロ』と『暗殺教室』についてみていきたいと思います。

『脳嚙ネウロ』の表面的には主人公桂木弥子の助手、実際は主人公を導くものとして登場します。
暗殺教室』の殺せんせーの場合も同様に、E組みというエリート学校で様々な差別を受ける生徒たちの先生として登場します。
どちらのキャラクターも人を導く者という立ち位置で登場しますが、処女作の『脳嚙ネウロ』と2作目の『暗殺教室』では、その展開が決定的に異なります。
『脳嚙ネウロ』では、ネウロは圧倒的な力を持っているがゆえに、最後の方は主人公が物語に入り込む余地が殆どありませんでした。
(もちろんXiとのやりとりなど、見せ場はありましたが、あくまで話の源流ではありません。)
強大な敵を倒した反動で衰弱しきったネウロが弥子に別れを告げて魔界に戻り、その後時間が流れ成長した弥子が事件を解決しているというのが最終話。
主人公(人間)の能力に驚いたというセリフはありますが、あくまでネウロは最後まで相容れない存在としてそこにあるだけでした。
それが『暗殺教室』になるとさらに一歩踏み込んで、自身は「最後に乗り越えられる存在」として描かれます。

詳しくは以前こちら(https://shimirubon.jp/columns/1675399)で書いたので割愛しますが、殺せんせーは第一話で「卒業までに自分を殺せ」、すなわち「卒業までに自分を超えてくれ」ということを子どもたちに語っています。
処女作ではただただ圧倒的な存在として登場していた作者が、2作目では先生という位置づけを以って、他者を成長させる踏み台として描かれるわけです。
こうすることで、極端な個性をそのままにしっかりと読者の指示を得られる主人公を成立させています。

「他を活かす存在」としての蛭魔妖一と「プレイヤー」としての千空

アイシールド21』の単行本のとあるコーナーで、作中に登場するそれぞれのアメフトチームの代表に「もし今日が地球最後の日だったら?」と尋ねるコーナーがありました。
それぞれのキャラクターが「らしい」ことを言う中で、蛭魔は「最後の日にならないよう、あらゆる可能性を探る」と言っています。
この蛭魔のセリフはそのまま『Dr.STONE』での千空の生き方に投影されています。
切り口や見せ方はまるで違いますが、まるまる考え方や性格がかさなる蛭魔と千空。
稲垣先生も2作目で自分を投影したであろうキャラクターを主人公に持ってきています。

アイシールド21』では、蛭魔妖一というキャラクターはチームメイトを時に(乱暴な方法で)励まし、時に(乱暴な方法で)叱咤するチームの精神的支柱のような存在でした。

だからこそ、殆ど「弱さ」を見せませんし、だからこそ他のキャラクターを活かすことができたのだと思います。
確かに、その描かれかたや行動で派手さは演出されていましたが、全体を通してみれば蛭魔そのものがいい場面を持っていくということはそう多くありませんでした。
あくまで他のキャラクターのよさを際立たせるための「監督」的な立ち位置が『アイシールド21』における蛭魔です。
それに対し、『Dr.STONE』では堂々と主人公に千空という、ある意味で蛭魔に良く似たキャラクターを持ってきています。

しかし、千空の場合は蛭魔と違い、徹底的に弱音を口に出しますし、誰よりも努力する姿が描かれます。
蛭魔と比べて、非常に「人間味」に溢れているのです。
千空のこうしたキャラクターと、文明が滅んでしまった世界に科学文明を復活させるという突飛な設定のおかげで、一般ウケしなさそうな(サポートキャラ的な)性格を持つ千空と
いうキャラクターが主人公として成立していると思うのです。

邪道キャラを主人公にするための設定の工夫

両作品を通して感じるのは、我の強いキャラクターを主人公に置くことの難しさです。
ルフィにナルト、黒子にデク、ゴンもサイコーも一護もツナもエマも、主人公は基本的にどこかしら共感しやすい部分を持っています。
こうした主人公に比べ、殺せんせーにろ千空にしろ、二人の作者の主人公の場合(暗殺教室の主人公をカルマと考えれば話がまた少し変わってきますが…)、共感という観点でいけば少し難しく思います。
それでも主人公として成立しているのは、設定そのものを主人公の「邪道さ」に負けないくらいに濃くしてあるからだろうし、「邪道さ」に負けないくらい魅力的に映るような心情を見せてくれるからだと思います。
こうした事が、1作目と2作目を並行しながら読んでいると如実にわかり、非常に面白い発見が多々あります。
処女作と2作目の読み比べ。
皆さんもぜひやってみて下さい!