新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



性怠説

ここ最近、「やる気」という言葉についてあれこれ考えています。
僕はよく教育に関わる人たちと飲みにいくことがあり、そこであれこれと議論をしたりするのですが、「やる気」ということが議題になると、そもそも前提が違うのではないかという「すれ違い」感を感じることが少なくありません。
それで考えていたのですが、「やる気」という言葉には、「性善説」と「性悪説」の立場の違いのような根本的なスタンスの違いがあるように感じたのです。

僕はこのやる気における「性善説」「性悪説」のような違いを、「性活説」と「性怠説」と名づけました。
人の本性は生まれながらに活動的であるというのが「性活説」、人は生まれたままの状態では怠惰であるというのが「性怠説」です。
アクティブラーニングや動画授業を推す人は、人は元来やる気を持っていて、それをITやさまざまなコンテンツで引き出すことが重要であるという、どこか「性活説」が前提にあるような気がするのです。
孟子が人の本性はさながら水が下へ流れるのと同じように、外部からの影響がなければ膳であるといっています。
これと同じように、本来は誰もが「やる気」を持っていて、それを引き出すのが教育であるというのが僕のいう「性活説」の立場です。
もちろん、この考え方が間違えであるなんていうつもりは毛頭ありません。
ただ、「性活説」の前提そのものを疑うという議論もあるのではないかと思うのです。

孟子の「性善説」に対して荀子が「性悪説」という反対意見を述べています。
それと同じように「性活説」に対応する「性怠説」のようなものもあると思うのです。
荀子の「人之性悪」になぞらえて「性怠説」を述べるなら、以下のようなところでしょうか。

人の性は怠なり、其の活なる者は偽なり。
今人の性、生まれながらにして安を好む有り。
是に順ふ、故に消極生じて、積極亡ぶ。
生まれながらにして惰性有り。
是に順ふ、故に怠惰生じて、勤勉亡ぶ。
生まれながらにして安楽の欲有り、受動を好む有り。
是に順ふ、故に不精じて、進取果敢亡ぶ。
然らば則ち人の性に従ひ、人の情に順はば、必ず消極生じて、退嬰優柔に合して、楽に帰す。
故に必ず将に師法の化、能動の道き有りて、然る後に積極に出で、果敢に合して、働に帰せんとす。
此を用つて之を観れば、然らば則ち人の性は怠なること明らかなり。
其の活なる者は偽なり。

荀子をもじって僕が作った「性怠説」を要約すれば、「人は生まれながらに怠けたいという気持ちを持っており、自然状態ではやる気なんて生じるわけがない。外部からの刺激を受けることではじめてやる気は生じるものである。」という意味になります。
人には必ず何かしら興味関心をもつものがあり、それを見つければ自然とやる気がでるのだから、やりたいことをとにかくやって、やる気の出るものを突き詰めようというのが「性活説」的な教育に対するスタンスです。
一方で「性怠説」の立場に立った教育はやる気はそもそも本人の中には存在せず、やりたいことをやればいいと言われて丸投げされても困るから、対象は何でもいいから外部の影響でやる気を感じる経験をさせてあげることが大切であるというものです。
やる気を感じるコンテンツが重要であるという「性活説」と、何にでもやる気を感じられるようになる訓練が重要であるという「性怠説」。

孟子荀子のどちらが正しいかが決められないのと同じように、「性活説」と「性怠説」のどちらが正しいというのはないと思います。
(実際僕自身はやや「性怠説」に近いですが、「性活説」の言い分も分かるつもりです)
ただ、大切なのは選択肢として両方の考え方が存在していることで、今の社会をみると、どうしても「性活説」に立った意見が多いように思ったので、「性悪説」というのを考えました。
立川談志さんが「落語とは人間の業の肯定である」と言い、「家族や友人を捨ててでも忠義を守る赤穂浪士をたたえるのもいいが、死ぬのが恐くて逃げ出すやつらを肯定してやるのが落語だ」といっていました。
「やる気」に関しても同じ事がいえて、人一倍「やる気」を持っている人を賛美するのはかまわないし、やる気がある人が成功するのも事実だけれど、それが「やる気」を持てない人を否定することに繋がるのは間違えだと思うのです。
まさに岡原正幸「求ム、癒されるべき身体」で述べていた「昨今の「勝ち組」の自己称揚や自己賛美や自己正当化に見られるように、優越とは一から十までその個人のなせる業とされる。それも専門的な能力や技能という、目に見える具体的な資質の有無に関わるというより、一層曖昧で、捉えどころのない、場合によっては訓練しようのない、たとえば、モチベーション、企画力、行動力、コミュニケーション能力、企業マインドといった特性(こともあろうに「人間力」とも呼ばれる)を身につけていることが謳われたりする。そしてもちろん、その裏面、人生の挫折や失敗、社会的評価を受けにくい境遇やライフスタイル、これらの劣等と不成功もまた個人のなせる業、なにか曖昧模糊とした特性の欠如のため、という扱いを受けることになろう。」ということを危惧しています。
「やる気」を肯定するロジックとともに、「やる気のなさ」を肯定するロジックも存在している。
それが「教育」には健全なように思うのです。

 

 

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