連載が再開するために内容を思い出すため、昔のストーリーを読み返すのですが、やっぱり非常に面白いなと思います。
特に時代の風潮を映し出すのがずば抜けているように思うのです。
ハンターハンターという漫画は、時代の空気感のようなものを常に先取りしているように感じます。
僕は5年ごとに時代の空気やトレンドのようなものが移り変わっていくと思っているのですが、ちょうどハンターハンターの大きな物語の区切りごとにそれらがうまく表れているように思うのです。
加熱する競争社会のゼロ年代前半とハンター試験〜ヨークシン編
1,999に連載が始まったハンターハンターは、主人公のゴンがハンター試験を取りに行くと言うストーリーから始まります。
これはマンガ家の山田玲司先生が指摘していたことなのですが、「資格を取りに行く」と言う設定が非常に興味深いです。
ここから13巻14巻あたりに出てくるグリードアイランド編まで、形は変えつつも「競争」がテーマに物語が構成されています。
極めてなるのが難しいハンターを目指して試験を乗り越えるハンター試験編は言わずもがな、その後主人公たちが修行のために行く天空闘技場編も、マフィアたちとのやりとりが描かれるヨークシンでのオークション編も形は違えど競争が描かれています。
天空闘技場は勝って上の解を目指すという意味で競争が描かれ、オークションはより高い金額で商品を競り落としと言う形で競争が描かれます。
グリードアイランド編は単行本で2001年から2002年位の間に始まるのですが、それまでの4年間のストーリーでは競争がテーマに書かれていたのです。
一方で2,000年代前半の漫画を見てみると「他人を倒して上に行く」という試験や競争がテーマになっているものが非常に多いということに気づきます。
ポケモンにデジモン、ガッシュベルにメル、或いはバトルロワイアル、ライアーゲーム、カイジ辺りは全て競争がテーマです。
2003年に連載が開始したドラゴン桜も受験競争をテーマにしたマンガでしたし、ナルトではちょうど2000年から仲人試験編が開始します。
とにかく 2000年から2005年にかけてこういった競争をテーマにした作品が多かったように思うのです。
ハンターハンターのハンター試験編から天空闘技場辺、そしてヨークシン編にかけては一足先にこうした競争が注目される社会の空気を描いていくと思うのです。
コンテンツに居場所を求めるゼロ年代後半とグリードアイランド編
ハンターハンターでは13巻あたりからグリードアイランド編と言われる新章に突入します。
グリードアイランドとは主人公の父親が作ったゲームで、主人公たちはそのゲームの中に自らが入り込んで(実態を伴っていると言うのがまた面白いところです) そのゲームの攻略を目指します。
これがちょうど2003年から 2年位の間続くのですが、ここで描かれる現実世界と平行世界というモチーフは、そのままゼロ年代後半のトレンドを先取りしていたように思うのです。
ゼロ年代後半に流行った漫画やアニメを並べてみると、とにかく競争や自己責任を求められる現実を完全に乖離させたようなモチーフの作品が多いように思います。
ちょうど主人公たちが現実世界からゲームの世界に入って行くかのように、僕たちはコンテンツの世界に没入していきます。
競争や先の見えない実社会からつかの間解放されるための逃避行としてのコンテンツというのがゼロ年代後半の特徴ではないかと思うのです。
いわゆる日常系とされるアニメは全てここに該当します。
マンガでも「理想の世界」が描かれることが増えてきます。
極端な例でいえばスポ根マンガの描かれ方の変化がそう。
またスポ根マンガから「汚い汗」が消えたのもちょうどこの辺りからだと思っています。
ちょうどテニスの王子様(テニスの王子様自体はゼロ年代前半から後半にかけての作品ですが、その後の新テニスの王子様、そしてミュージカルが流行ったのがゼロ年代後半ということで僕は後半にカテゴライズしています。)や黒子のバスケになってくると、汚い汗(泥臭い汗)が描かれないのです。
(この辺は読んでいる人にしか伝わらないかもしれません...)
少年マンガにも関わらず、こうしたスポ根マンガが女の人から支持されるのはこの辺が理由であるように思います。
また、こうした例を挙げる以前にインターネットの普及で人々の間にどんどんネットが浸透していきます。
高校生の間でプロフが、社会人の間でレンタルブログが流行りだしたのも確かこの辺りですし、YouTubeが流行りだしたのもこの辺。
期間としては決して長くないグリードアイランド編ですが、ちょうどこの辺りの空気感を察知していたかのように感じられます。
現実に向き合わなければならない10年代前半とキメラアント編
グリードアイランド編が終わると18巻から30巻にかけて、キメラアント編が始まります。
ハンターハンターと言う作品では最初の段階で既に物語が展開する世界の外に広大な世界が広がると言う設定が示されていましたがここにきて初めてその設定が活用されます。
主人公たちが日常を過ごす安全な世界の外に、まだ人類が全く解明できていない混沌とした世界が広がっているのですが、キメラアント編ではそこから未知の生物がやってきて人間を襲うと言うストーリーが展開します。
2004年から2012年にかけて展開されたこの物語は、 ゼロ年代後半から10年代にかけて話題になった進撃の巨人を始めとしたいわゆる「壁」を扱った作品の先駆けと言えるでしょう。
進撃の巨人では一話で人々の生活を守る強固な壁が巨大な巨人によって崩される場面が描かれていますが、僕はこの描写を本人たちが望もうが望ままいが押し寄せる現実に向き合わねばならないという、切迫した僕たちの状況を描いたものだと思っています。
ゼロ年代の終わりから10年代の始まりにかけて、「進撃の巨人」「ワンピース」「フェアリーテイル」「トリコ」果ては「逃げ恥」まで、とにかく壁の内と外という表現が多用されました。
こうした壁を題材にした作品にジャンルを超えて共通しているのは、外を遮断して平穏を保ちたいという意識と、一度流れが押し寄せたら元には戻れないという危機感です。
それは実社会でもまるで同じで、僕たちはリーマンショックやギリシャ危機、そして東日本大地震で避けられない外からの影響と、「その後」は「その前」に戻ることはできないということを痛感しました。
「壁」という表現は僕らが強く認識したこうした気持ちを端的に表すものだったように思います。
善悪の二項対立では語れない10年代後半と会長選挙編
キメラアント編が終わると会長選挙戦が始まり、そのクライマックスでやっと主人公のゴンは父親であるジンフリークスに出会うことができます。
ゴンとジンの出会いは、「父性の回帰」という意味でも興味深いのですが、あくまでも社会の流れと言う視点からハンターハンター多いかけているので今回は置いておこうと思います。
単純な善悪の二軸で語ることができないというテーマは、キメラアント編の後半から既にかなり強く出ていたテーマですが、会長選挙編、それから暗黒大陸の導入編にかけていっそう強く現れます。
元は人類に仇を成す敵として描かれていたキメラアントですが、 最後まで読んでみるとむしろ人間の方がひどいのではないかと思わされるような結末になりました。
またかつて敵として登場したキメラアントの多くが人間と上手く打ち解ける描写も描かれています。
こうして終わったキメラアント編に続く会長選挙編では、単純には割り切ることのできない様々な立場の考えが出てきます。
強あるべきと言うハンター協会の姿を守りたい十二支ん、一見悪者に見えるけれど実は会長が好きだったパリストン。
そのどちらの視点も分かったうえで様々な立ち振る舞いをする主人公ゴンの父親ジンフリークス。
会長選挙と並行して展開するキルアの妹(弟?)アルカを奪還する物語でも、それぞれがそれぞれの正しさを守るために行動していると言うことが強調されます。
そしてゴンが無事元気になって父と初めて出会うのですが、その時に父がゴンに伝えたメッセージも、世界樹という巨大な木を例に出して「常識を常識として捉えるな」というものでした。
何かを敵認定してそれを批難する。
スマホの普及とSNSの進化、或いはテレビ番組や雑誌を見ていると、とにかく敵と味方と言う分け方が流行ったのが10年代の中頃だと思います。
一方でそうした時代の空気感に対して疑問を抱く声が間違いなく生まれつつあります。
まだ10年代は2年残っていますが、10年代の後半はこの数年で行きすぎた善悪の単純化に対する揺り戻しが来るのではないかと思うのです。
もちろん僕は漫画を読む際に社会動向や時代の空気感なんて考えず、単純に面白ければそれでいいと思っています。
ただ、こういう見方をしようと思えばすることもできなくは無いと思うのです。
ハンターハンターはこういった視点から見ても非常に面白い作品だと思います。
現在の暗黒大陸編は20年代前半の空気感を先取りするように思えてならないのです。
(現状だとお祭り騒ぎをして暗黒大陸に向かった一行が、その後船という限られた空間の中で自分が生き残ろうと策をめぐる姿が、オリンピック後の衰退していく日本に重なりそうで嫌な想像しかないのですが 笑)
ハンターハンターはよく休載するため「けしからん」と言う意見も聞きますが、僕は休載するからこそ時代の空気を敏感に読み取れるのだと思っています。
休載しつつ毎回時代の空気を感じそれを作品に込める。
ハンターハンターにはそんな愛着を持っていたりします。
というわけで、再開したハンターハンター。
今回はどこまで続くのかというのと、どういう展開になるのかが楽しみです。