感情言語と意味言語〜ネットの炎上の仕組みを考える〜
僕は言語論を学んだことがあるわけでもないので、もしかしたらもうとっくにそんな区別は存在するのかもしれませんが、僕は言語について感情言語と意味言語の2つが存在すると考えています。
感情言語とは、人によって尺度の変わる主観的な気持ちを表す言葉のことです。
一方で意味言語とは複数の人が同一の判断を下すことができる客観的な情報を扱う言語のことです。
例えば塩と言う言葉に関して、「調味料である」や「白い」(色付きのものもありますが)というのは誰が見ても基本的に変わることがないので意味言語となります。
一方で「しょっぱい」や「おいしい」と言った言葉は、使う人ごとにニュアンスが変わります。
こういったものを僕は感情言語と呼んでいます。
「塩」を例にした場合は直感的にわかりやすいですが、これが抽象的な言葉になると区別が急に曖昧になります。
例えば責任と言う言葉。
「責任がある」という言葉がある現象に対して責任を負っていると言う事実を表します。
そこには善悪の判断が介入することがないのでこれは意味言語です。
一方で「悪い」という言葉は人によって解釈が異なるため感情言語と言うことになります。
この2つを合わせると「責任があるから悪い」とうことになるのですが、前者は意味言語で後者は感情言語であるため、それらをそのままイコールで結ぶことは適当ではありません。
本来であれば責任があると言う事実確認の後に、個人の解釈として良いか悪いかの判断がつくはずなのです。
誤解を恐れずにあえて言えば、僕はハイコンテクストの社会では、意味言語と感情言語が明確に区別されて利用されていて、ローコンテクストの社会では意味言語と感情言語の区別がないままに使われていると考えています。
これは別にどちらが良いとか悪いとか言う話ではありません。
僕の定義では意味言語と感情言語の区別がある所をハイコンテクストの社会、区別せずに使うことをローコンテクストの社会と呼んでいるだけです。
意味言語と感情言語の区別をする人同士の会話では誤解や問題が生じないのと同様に、意味言語と感情言語の区別がない者同士の会話であれば何の問題も生じません。
問題が生じるのは、意味言語と感情言語の区別をする人としない同士のコミニケーションが発生した時、つまりハイコンテクストとローコンテクストのコミュニティーの人が半ば事故的に出会ってしまった時です。
SNSが発達した現在こうしたことが頻繁に起こるようになってしまいました。
SNSにおけるやりとりは所属するコミュニティーやバックグラウンドを共有しない人たちとの出会いを容易に発生させます。
その声で言葉の認識のズレが生じて、そこから炎上が起こるように思うのです。
Twitterで意味言語と感情言語を区別して発した言葉を、意味言語と感情言語の区別をしないのが当たり前の人私が聞いたとしたら、発信者の意図しない受け取られ方をされると言う事は容易に起こります。
例えば意味言語と感情言語を区別して使う人が「責任はあるが悪くはない」と発言したとします。
意味言語と感情言語を区別しない人にとっては「責任がある=悪い」ということなので先の意見は成立しないわけです。
そのため、「責任はあるが悪くは無い」と言う発言をした人に対し、あいつは悪いことをした人の方を持つのだという誤解が生じるのです。
昨今のSNS上での援助を見ているとこうした違いが原因となっているものが少なくないように思います。
そしてこれらは根本的な意識の違いによる問題によるものなので(繰り返しますがそれが良い悪いと言う話ではありません)、解決することはないでしょう。
SNSが感情言語と意味言語を区別せずに使う人が大半であるのだから、それに合わせて感情言語中心に会話をするようにか、意味言語と感情言語を分けて考える人自身が、それに対する批判をものともしないメンタルを身に付けるかのどちらかしかないように思います。
少なくともここまでSNSが普及し、またさらに今後普及していくであろう社会では、意味言語と感情言語の区別がない判断をされると言うのが当たり前に少なくともここまでSNSが普及し、またさらに今後普及していくであろう社会では、意味言語と感情言語の区別がない判断をされる傾向が強まることは避けられないことです。
ハイコンテクストで物事を語る人間は、今後ますます公の場(誰でもアクセスすることのできるSNS上)での発信が窮屈になっていくのではないかと思うのです。
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