新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



日本の名付けとは何か?ソシュール的とキリスト教的に分けて考える

先ほどツイッターで連続ツイートをしたのですが、あまりに迷惑な長さになってしまったと思ったので、ブログにまとめ直しました(笑)


今日のやることは一通り終わったので、最近あれこれ考えていたのだけれど言語化できていなかったものを書き散らしてみる。
ソシュールによると、ある物は存在するから名付けられるのではなく、名付けられた瞬間から存在するとされる。
これはキリスト教の創世記にある名付けとは真逆の考え。

キリスト教の創世記では(確か)神様が粘土で鳥や獣を作って、それをアダムに見せると、アダムがそれらに適した名前をつけていったとされている。
つまり、初めに物があって→それに名前をつけるという流れ。
ソシュールは反対に、名前をつけることで初めてそれに意味が加わると言った。
例えば、ここにそこが深く、プラスティックでできている手のひらに乗るくらいの大きさの容器があったとして、それに「コップ」と名前を付ければ水を飲むとしての機能を持つし、「プランター」と名付ければ土を入れて花を植える容器になる。
或いは「プリンのゴミ」と名付ければ、既に役割を果たした容器になる。
ソシュール的には名付け→意味となる。

 

「名付け」という観点からみると、日本の落語にある「やかん」という話が面白い。
長屋の住人の八五郎が物知りのご隠居に様々な物の名前を聞く話。
八五郎の「なぜ『やかん』は『やかん』というのか?」「なぜ『鰻』は『鰻』と呼ぶのか」という質問に対して、ご隠居が屁理屈をこねていく。

例えば、「侍が兜の代わりに被って敵陣に突っ込んだら、一切に矢を打たれて、それが『かーん』と当たったから『やかん』だ」とか「あの魚は鵜が飲み込むのに難儀するから『うなぎ』(鵜が難儀)だ」などと返す。
面白いのはこれらがまず形ありきという所。
ソシュールかキリストで言えば後者に近い。

 

存在が先か名前が先か問題は、仏教と神道の顔があるかないか問題にも近いところがあると思う。
例えばお寺には仁王像だとか阿弥陀像といった、仏様の姿を模した木像やら銅像やらがある。
一方で神社に祀ってあるのはご神木や石などだ。
元々神道では、神を形で表すという習慣がなかった。

 

神道では、八百万の神がいて、それらには顔や名前がない。
イザナギスサノオのように、名前のある神もいるがそれらについても実体に関する記述はない)
また、きちんとした名称のある祭神を祀る神社でも神を一宮、二宮、三宮、一殿、二殿、三殿と呼んだり、ご神木や石を「ナナシノキ」や「ナシラズノ木」といった「名前のない」という名づけをしたりして呼んだりする。
そういえば 千と千尋の「カオナシ」も顔がないという名づけがされている。

 

こうした「顔のない」神道も6世紀に仏教が伝来することで影響されたことがわかる。
山折哲雄によれば、仏教が伝来したあと伊勢の多度神社に多度神の「神像」が作られたそうだ。
この辺りから日本の神にも形ができてきた。
以上が仏教と神道におけるお話

 

話は飛んで漢字に関して見てみたい。
漢字は元々、ある物を見てその絵を崩すところから生まれた(やや誤解のある言い方かもしれないけれど...)
これを踏まえて、先のソシュール的かキリスト的かという判断をすると、漢字も後者ということになる。

 

物体のイメージを記号化したものが象形文字であるため、その延長にある漢字は、
もともとイメージを字にしたのが象形文字であるなら、漢字は初めに物があって→それに名前をつけるというものであるといえる。
その漢字を基盤としてコミュニケーションをとる文化圏の人は、キリスト的な名づけの思考をしていたのかもしれない。
またまた話は跳んで、今度は現在のお話。
(話がとっ散らかっているけれど、そもそも雑記なのでご勘弁下さい)

僕たちはケータイの普及と共に顔文字を、LINEが普及してからはスタンプを多用するようになった。
僕はこれを選択肢の中から感情を選び、選択したモチーフの範囲で伝わる感情表現でやりとりする行為であると思っている。
スタンプを名付けとみなせば、名付けによって感情が表出したと見ることができる。

名付けることにより感情が表れると見ると、極めてソシュール的。
恐らく漢字が伝達し、ひらがなやカタカナが生まれて以来、日本の先人たちは自分の感情の機微を表すのに最もよい表現をずっと探してきた。
異論は承知だが、僕は感情をよく表す名を授けるという意味で、こちらをキリスト的と考えている。

 

選択肢の中から感情を選ぶことが当たり前の絵や文字によるコミュニケーションの世界において、選ぶことができない感情は存在しないものとして扱われる。
例えば同じ「おもしろい」という感情でも、細か鍬ければ「愉快」「可笑しい」「痛快」「滑稽」「小気味いい」「喜ばしい」などいくらでも細分化することができるが、「おもしろい」という言葉しか知らない人にとっては、全てが同じ「感情」として認識される。

一九八四年という小説の中で、ジョージ・オーウェンは国民の使う語彙を減らすことで彼らの思考力を低下させようとする「ニュースピーク」という言語を作った。
思考は言語があって初めて生まれるものである(こういうと文字の場合と文章の場合でソシュール的とキリスト的が入れ替わってしまうように聞こえるかもしれないが、文字の話と文章の話は違う次元の問題)あるならば、思考の元になる言語を奪えば、そもそも思考ができなくなるというわけだ。

 

であるならば、表現の多くにスタンプが浸透した、いわば「スタンプネイティヴ」のような世代が出てきたら、その便利さ故に持っている語彙力は極端に少なく、それに伴って思考力は低くなると思う。

 

で、これをもって世の中を憂うみたいな厭世家のような事をする気は全くない。
そうではなく、需要と供給の関係で考えれば、AI等の技術の発展でこれからは今まで以上に「考える」人が求められ、その中で思考力がある、つまり語彙力が豊かな人材は相対的に価値が高くなるだろうというお話。

 

だから、国語を勉強した方がいいんじゃないかなと思ったりする訳です。
と、自分のフィールドに無理やり落ち着けてみました(笑)
一眠りしたら、居酒屋探して飲みに行こう。

 

 

アイキャッチはまだ名前のないこの人(猫)

吾輩は猫である〈上〉 (集英社文庫)

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