芸術作品に見る「常識」と養い方
daguerreotypeの写真が当然であった時代の人々にとっては、現代の街を行き交う人々が写っている写真は極めて不自然なものに見えるだろう。
これは昔、東大の英語入試で出題された文章の一部を和訳したものなのですが、僕にとってこの文章は芸術や文化に興味を持つきっかけになったもので、未だに強く印象に残っています。
当時のdaguerreotype、つまり銀盤写真では、カメラの前で長時間動かずにいることで写真に写ることができました。
(ウィキペディアより引用しました)
だから、例えば町の写真を撮ろうとしたら、上の図のように動いている人々は写真に写らず、止まっている都市の風景だけが写ることになります。
だとすれば、そういう写真が「常識」の人たちにとっては、「数時間止まったままにできない存在は写真に写りこまない」というのが「当たり前」になるわけです。
であれば当然、スマホを取り出してボタンを押しっぱなしにするだけで連写ができる現代の僕たちとは世界の見え方が当然違うはずだし、それによって導き出されるアウトプットも違うものになるはずである。
この文章を読んだときにそんなことを思い、以後作品に現れる見え方の「常識」みたいなものを集めています。
現代との見え方の違いという観点から面白いと思うのはカイユボットの『Paris Street; Rainy Day』という作品です。
(ウィキペディアより引用)
ご覧の通りこの作品には雨の降るパリの街並みが描かれているわけですが、そこには僕たちが雨を表す際に使う細い線で描かれたような「雨」はありません。
チームラボの猪子さんはこの絵と、その数年後、日本の浮世絵から「雨を線で描くといい」ということを学んだ後の絵を引き合いに出し、ジャポニズムが広がる以前のフランス人の文化においては、雨は線で捉えるものではなかったのではないかという仮説を立てていますが、おそらく文化という意味ではその通りでしょうし、雨が線に見えない文化を知ろうとする上で非常に学ぶことが多いのが、このカイユボットの作品であるように思います。
アラン・ルノーの『個人の時代』には(確か)昔の作品に描かれる、「着ている洋服に関しては細部まで描かれているのに対して被写体の顔が曖昧である」ということを以って、「この時代には『個人』という認識がなかったのではないか」と結論づけていますが、これも上の例と同様にその通りで、同時に作品に現れるように、当時の人々にとっての社会の見え方が反映されているように思います。
視点を日本に向けてみれば、小林一茶の「手向くるや むしりたがりし 赤い花」という俳句からも、当時の文化背景をうかがい知る事ができます。
この歌は、一茶が死んだ自分の娘を題に詠んだ歌なのですが、これを理解するためには江戸時代の「時間感覚」を理解する必要があります。
一茶がこの歌を詠んだときは、生とは向こう側の世界から形を持って現れるものだという認識が常識でした。
だから植物の開花は、ない世界からある世界への新たな命の芽吹きを表し、それを積むのは忌むべきことだったわけです。
唯一花を積むのが許されるのは、死者に対する手向けをするときだけ。
一茶が詠んだ「君が小さいころむしりたがった花を、君が死んでしまったからやっと摘んで墓前に飾ってあげられる」という歌の意味に込められた悲しみは、こうした 当時の価値観を知ることで初めて理解できるわけです。
僕は芸術の強みはここにこそあると思っています。
芸術に触れ、当時の人々が芸術に込めた意図や思想を理解しようとすることで、初めてその時代の価値観がわかり、作者がその作品で言わんとしたことも理解ができる。
芸術にはそんな、僕たちを常識の外へ連れて行ってくれる機能があるように思います。