新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



槇原敬之『Hungry Spider』考察〜蝶を逃した蜘の気持ちと蜘蛛の巣に潜む作曲者の孤独〜

いつものことですが、あくまで「僕の解釈」なので、その点はご了承下さい。

 

小さい頃、カーステレオからよく流れてきた槇原敬之さんのHungry Spider。

僕がこの曲を好きになったきっかけは、妖艶なその曲調からでした。

大人になってある程度歌詞の意味なども理解できるようになってくると、僕がこの曲に惹きつけられる場所は歌詞へと移っていました。

なんて孤独な歌なんだという印象です。

その頃になって、槇原敬之さんがちょうどこの曲の発表時期に覚醒剤で捕まったことを知ったのですが、そんなことは関係なしにこの曲は孤独に満ちているというのが僕の解釈です。

 

Hungry  Spiderは終始美しい蝶に恋をした蜘蛛の物語というメタファーで「叶わぬ恋」を描いていますが、もう一段掘り下げたところに槇原敬之さんの「気持ち」があるのではと僕は思っています。

 

 

蜘蛛と蝶の物語を読み解く

偉そうに作曲者のホンネを探るみたいなことを言いましたが、そのためにもまずは普通にこの歌を解釈しなければなりません。

(そもそもの歌詞がメタファーで作り上げられているため、まずはそこを攻略しなければホンネも何もないので...笑)

 

<今日も腹を減らして一匹の蜘が 八つの青い葉に糸をかける ある朝露に光る巣を見つけ きれいと笑ったあの子のため>

この曲の登場人物はきれいな蝶と、その蝶を好きになってしまった蜘。

蝶はある日、朝露で光る蜘蛛の巣を見て「きれい」と微笑みます。

それを見た蜘が蝶を好きになってしまう。

そして、毎朝蜘蛛の巣を張ってまたあの蝶に喜んでもらおうとしています。

しかし蝶がきれいと言ってくれた巣は、本来そんな蝶たちを捕まえるためのもの。

朝露で光る一瞬はきれいでも、それが乾いたら彼らを捕食するための罠。

蜘は蝶にまたきれいと笑って欲しいけれど、そこに蜘蛛の巣を張って蝶が近づいてきてしまえば、いつかは蜘蛛の巣に捕まってしまうかもしれません。

そんな葛藤を描くのが1番のAメロとBメロです。

 

<I'm a hungry spider. you're a beautiful butterfly>

このサビには自分と好きになった相手は全く違うものであるということ(恐らく自分に言い聞かせている?)が示されています。

どうせそもそも近づくこともできないのだからこの恋は諦めよう。

そんな気持ちが描かれます。

そして、2番で物語は別の日に移ります。

 

<今日も腹を減らして一匹の蜘が 八つの青い葉に糸をかけた その夜 月に光る巣になにか もがくような陰を見つけた>

1番が「糸をかける」と(厳密にはこの言い方は正しくありませんが)現在形で描くことで昨日も今日も明日も行なっている習慣的行為であるのを表すのに対して2番では「糸をかけた」と過去形にすることで、特別なことが起きたのだと暗示させている所は本当に見事だと思うのですが、槇原さんの歌でそこを指摘していたら(多すぎて)終わらないので、今回はスルーします。

蝶のことを好きになってしまった蜘に問題が起こります。

好きだった蝶が自分の巣に引っかかってしまったのです。

蜘は当然その蝶を食べるつもりはなく、助けようと近づきます。

しかし、いくら蜘が助けようとしていても蝶にとっては醜い捕食者が罠にかかった餌を食べに来ているようにしか見えません。

そのため、蜘が<今すぐ助けると言うより先に 震える声であの子が「助けて」と繰り返す>わけです。

かつて朝露に光る巣を見て笑ってくれた蝶に好意を抱いていた蜘は、いざ目の前で好きになった相手を助けようとして、全力で怯えられてしまいます。

そして2番のサビに。

 

<I'm a hungry spider. you're a beautiful butterfly>

1番同様に自分と相手は違うと言うことを言い聞かせるこの歌詞ですが、前の文脈によってその意味合いは決定的に異なっています。

1番では、相手を傷つけないために自分から言いきかせたこのセリフですが、2番では実際に相手に拒絶されることで気づかされた立場の違いを振り返るセリフになっています。

だからその後ろには、いっそ巣にかかる全てを食べれば傷つかずにいられるのだろうかという歌詞が続く。

この辺の構成がとんでもないなと思います。

 

そして3回目のBメロのあと、最後のサビで<I'm a hungry spider. you're a beautiful butterfly 叶わないとこの恋を捨てるより この巣にかかる愛だけを食べて あの子を逃した>と意味深な歌詞に続きます。

1番のサビでも<叶わないとこの恋を捨てるなら この巣にかかる愛だけを食べて あの子を逃がすと誓おう>というように似た表現が出て来ていますが、ここを解釈するには、槇原敬之さんが「恋」と「愛」をどういう意味で用いているかを考える必要があります。

辞書的な意味では「恋」は気持が惹きつけられて相手に思いを寄せること、「愛」は相手を愛しむ気持となっています。

恐らくここでも好きだから相手に近づこうとするのが「恋」、好きだからこそ相手のために身を引こうとするのが「愛」くらいに解釈するのが適当であるように思います。

蜘は最終的に相手と恋に落ちることはできないと悟って、それでも好きという気持ちは捨てられないので、自分は手を出さないという選択をします。

そして、ただきれいな蝶を眺めるだけの存在に徹することを選ぶわけです。

 

一見蜘は蝶を逃す前と後でやってることはまるで変わらないように見えますが、一緒になれないとは感じつつも蝶に振り向いて欲しくて蜘蛛の巣に朝露をつけていたときと、一緒になれないと自覚した上で蜘蛛の巣から蝶を眺めるのとではまるで意味が違います。

蜘は自分の気持ちを捨てられないのを認識した上で、その蝶を想い続ける道を選択したのです。

 

以上が僕のこの歌に対する解釈です。

で、普段ならここでまとめてしまうのですが、この曲に関してはもう少しだけ掘り下げてみたいと思います。

 

Hungry Spiderにおける「蜘蛛の巣」は何なのか?

僕がこの曲で最も気になったのが、蝶と蜘の間に物語を生じさせた「蜘蛛の巣」が何のメタファーであるかです。

蝶は朝露に光る蜘蛛の巣を綺麗と言うし、蜘も喜んでもらうために毎日蜘蛛の巣を貼り続けます。

一方で、蜘は巣を「あの子のような蝶を捕まえるもの」と言っている。

そして、光る蜘蛛の巣に惹きつけられて絡め取られた蝶を助けようとして初めて蜘が蝶に近づくと恐れられる。

僕はこの蜘蛛の巣は、才能のメタファーであると考えています。

作曲者の槇原敬之さんにとっての才能とはもちろん歌のこと。

蜘は、本当なら自分のことを好きになってもらいたいのに、蝶がきれいといってくれるのは自分の作った蜘蛛の巣の方。

僕はHungry  Spiderが、本当は等身大の自分を分かってもらいたいのに、集まってくるのは自分の才能に惹きつけられた人ばかりであるという作曲者の孤独感を歌ったのではないかと思っています。

もう1つ、朝露で光る蜘蛛の巣と、朝露が乾いた巣に関しても当時の槇原敬之さんの複雑な心境が描かれているように思います。

槇原さんは、自分の曲を「ライフソング」と呼び、恋愛とかに限らず、もっと普遍的なものを歌いたいという想いを持っている方だそう(どこかの特集で語っていたと想います。思い違いだったらすみません。。)

実際、「どんなときも。」「僕が1番欲しかったもの」や「Flrefly〜僕は生きていく」や「世界に一つだけの花」のような恋愛以外の曲も多く描いています。

しかし、槇原敬之さんといえば「もう恋なんてしない」とか「冬がはじまるよ」みたいにどうしてもラブソングの印象が強い歌手です。

キラキラ光る蜘蛛の巣がラブソング、本当に自分が描きたい曲が乾いた巣というメタファーも含まれているのかなとも思いました。

 

こんな風に何通りにも読むことのできるHungry  Spider。

サイケデリックな感じで好みが分かれるところかと思いますが、僕はオススメの一曲です。

 

アイキャッチはもちろんHungry  Spider

 

Hungry Spider

Hungry Spider