新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



デジタル「以前」を武器にする

数年前にサイコパスというアニメにはまっていました。
サイコパスで描かれる世界では、その人の「悪意」が数値化されます。
ドミネーターという自動照銃のようなものを向けると、その人の悪意の指数が表示されて、潜在的な凶悪性を持つものほど「悪意の数字」が大きくなる。
主人公はそんなドミネーターを持って、凶悪な犯罪者と戦います。
そんな世界観で話が展開されるサイコパスですが、主人公たちの最大の敵として登場する槙島という人物は、紛れもなく凶悪な犯罪者にも関わらず、「悪意」が表示されません。
機械には数値化できない悪意を備えた人物なのです。
サイコパスという作品にはまったのは純粋に作品の面白さによるものですが、同時に槙島という人物の設定を見て以来、僕の中で「数値化できないこと」というのが一つのテーマになりました。

先日葉加瀬太郎さんが、自身の楽曲『エトピリカ』の演奏解説を見たときに、意図的に微分音を混ぜているという話しをしていて、それに驚きました。
微分音とは、CとC#の間にあるような五線譜には現れないような音のこと。
ピアノから楽器に入った僕にとって、音は五線譜で書き表されるもの、白鍵と黒腱によって表されるものであって、五線譜には表れず、まして鍵盤の存在しない部分に音があるなんていう視点はなかったので、非常に新鮮でした。

ジャンルを問わず、僕たちはある出力装置に慣れ親しんでいると、そもそも「その出力装置が表せるものしか目の前には現れない」という極めて当たり前の前提をちょいちょい忘れてしまいまる。
一見何でも調べたら出てきそうなGoogleでも、そもそも誰にも言語化されていないものは検索しても到達できませんし、誰もそれに「投稿すべき価値」を見出さないような情報はアップされません。
あるいは、僕たちは言葉によって、他者に自分の意図を伝えられるように思いがちですが、言葉にした時点で、頭の中で想像していた周辺にある細かなニュアンスのようなものはそぎ落とされてしまいます。
僕たちはそうやって、無意識の内にその出力装置で表されるものが世界の全てと思い込んでしまうわけです。

 

僕は統計的に考える事が大好きなのですが、一方で誤差項をとても大事にしています。
ナシーム・ニコラス・タレブ教授が『ブラックスワン』の中で言うように、統計的にはたった1つの「異常値」にすぎなかったとしても、それが決定的なインパクトを与える場合があるからです。

デジタルの根本が世の中の事象を0と1で表すことにあるとして、そのことによりあらゆるものが効率化されていくのだとしたら、その世界観における最大の差別化は0と1に変換する際に切り捨てられた誤差の部分になります。
宮崎駿さんは現実の自然とアニメ世界の自然の違いを「情報量」といい、猪子寿之さんは芸術の差別化要因を「文化」と、それぞれの分野に適した言い方をしていますが、僕の考える「誤差」はまさにそんな感じ。
デジタルに変換されたあとの部分で差別化を測ろうとするのではなく、デジタルに組み込まれた時点で削ぎ落とされた部分を武器にする。
確かな根拠があるわけではありませんが、直感的にそういう戦い方の目を肥やしておくことが、これからの社会で価値を生み出すのに大きな強みになるように思うのです。

 

 

ブラック・スワン[上]―不確実性とリスクの本質

ブラック・スワン[上]―不確実性とリスクの本質