新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



評価経済を考える~信用の「交換価値」と「資本価値」~

経済学等で習う「正しい」お金の価値とは大分異なりますが、僕はお金には欲しい者があったときにそれを手に入れるために使うことができる「交換価値」と、お金そのものが増えていく「資本価値」があると考えています。
持っているお金の量は一定で、それを豊かさのために欲しいものと交換するか、資本として積み立てるかは本人の自由。
ほしい者を得るために使えば、その分だけ将来の資本蓄積は減りますし、「資本価値」の側を重視すれば、長期的に持っているだけで積み立て時点よりも多くなる可能性があります。

この数年で、評価や信用がお金の代わりに機能する社会がやって来たというようなことが言われるようになってきました。
その認識に対しての僕の意見はともかく、信用が「お金的に」動くようになった社会というのは、信用の「交換価値」の側面にスポットを当て始めた社会であるというように感じています。
従来の信用というのは、それのおかげで仕事が舞い込んできり、話が円滑に進んだりと、いわばそれを元手に価値生産ができるという類のものでした。
いわばこれまでの信用や評価といったものは「資本価値」のみを持っていたものなのです。
SNSの発達やクラウドファンディングなどのサービスが充実によって、信用や評価は、「資本価値」の他に「交換価値」として用いられるようになります。
信用が多い人はそれを用いて欲しい物を手に入れたり、お金に換えたりということが可能になりました。
現在の「信用がお金の代わりになりつつある」という現象は、テクノロジーの進歩により、それまでは不可視であった信用や評価の「資本価値」が多くの人に注目されるよういになったというものだと思うのです。

僕の興味の対象はここから。
お金に「交換価値」と「資本価値」の2つの機能があり、目先の快楽や豊かさのために前者の機能を多用すれば、その分後者の機能を使う際の「元手」は減っていきます。
仮に1000万円のお金を持っている人がいたとして、それをそのまま「資本価値」の機能で運用すれば長期的にはそれが毎年100万円ずつお金を生む可能性があったのに、1000万円のうちの半分を「消費価値」として使えば、長期的には毎年50万円ずつしかお金を生み出さないということになります。
長期的な視点でリターンを得ようとするのなら、できるだけ「資本価値」の側面からお金を運用した方がいいということになるのです。

信用にもお金と同じように「交換価値」と「資本価値」の2つの機能があると考えたときに、前者の機能を多用していれば、長期的に後者の機能で得られたであろう「価値」を失うことになるというのが、最近の僕の仮説です。
現在の「信用がお金のように様々な機械を手に入れるための手段になりつつある」という主張は、信用が持つ「交換価値」と「資本価値」の2つの機能のうち、「交換価値」の機能で使い倒している状態であるように思うのです。
当然その一方で「交換価値」として利用した分だけ、「資本価値」の機能で用いることのできる信用や評価の総量は目減りしている。

たとえば、あるイベントに人を集めたくて、自分の信用を「交換価値」として利用します。
そうすると仮に誘ったAさんは好意でそのイベントに参加してくれるかもしれませんが、その部分でAさんに対して積み上げていた信用が減っていることになります。
それを繰り返してAさんとの間に積み上げた信用がゼロになると、Aさんとの関係が途切れてしまう。
反対にどうしても集客をしたいイベントがあったとしても、そこにAさんを呼ぶのが相手にとってメリットのない行為だと考えて、集客のために呼びたいという気持ちがあってもそこで「交換価値」の機能を行使しなかったとします。
そうすると、Aさんに対して積み上げた信用や評価が「資本価値」の側面からどんどん積みあがっていき、やがて、直近のイベントに呼ぶことによって失われる交換価値分はリターンで賄えるくらいまで大きくなるかもしれないのです。

信用を「資本価値」の機能から見たとき、本来の信用の使い方はこの「資本が生み出すリターン値>信用する信用の量」になるように運用しなければなりません。
そうしなければ、どんどん信用が減っていってしまう。
逆に言えば、「資本が生み出すリターン値>信用する信用の量」となるように信用を利用すれば、自分の積み上げた信用がへることはありません。
本来こうやって使うのが従来の信用だったのですが、それを「交換価値」に着目して、目先の利益のために「信用資産」を食い潰しているのが現在の信用経済を叫ぶ人たちのように思うのです。
もちろん、消費した分だけどんどん信用や評価を稼ぐというのならば、それはそれでいいと思います(そして、さまざまな技術が発達した現代ならばそれは可能であると思います。)。
ただ、そうやって集める信用の先には、「交換価値」が可視化されていなかった時代に信用や評価を積み上げてきた結果得られる「資本価値」の側面からみたような信用を持っていることは不可能であるように思うのです。
そして「信用価値」の機能を重視した信用や評価の積み上げを同世代があまりしていない(=信用や評価の「交換価値」の機能ばかり使っている)としたら、長期的には「資本価値」を積み上げたと言うのは希少性になり得るだろうというのが僕の考えです。
そんな訳で僕は自分の活動に対して何でもかんでも集客目的で連絡を取ったり、売り込みをしないというスタンスをとっています。
それが正しいのかどうかなんて、現状で分かる余地もないのですが、直感的に、上手く行くような気がしているのです。
あくまでこれも社会実験の一つですが、信用や評価の「交換価値」と「資本価値」というのは、おいかける価値のあるテーマであるように思います。

 

アイキャッチはサルトゥ・ラジュの『借りの哲学』

 

借りの哲学 (atプラス叢書06)

借りの哲学 (atプラス叢書06)