新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



自家発電型の社交性と充電型の社交性

仕事柄、僕の周りには社交的なタイプが多く存在します。
人に会う時はいつもニコニコして、相手を思いやり、率先して場の空気作りを行う。
こういう人は傍からみれば人くくりに「社交的なタイプ」にカテゴライズされると思うのですが、僕が見ている限り、その同じ「社交的」であっても、2つのタイプが存在しているように思います。
僕はこの2つの社交性を「自家発電タイプ」と「充電タイプ」と呼んでいます。
自家発電タイプは、人と時間を共有することが本当に好きな人たちのこと。
ここに属する人たちは、人といることが幸福であると共に披露の回復にも繋がります。
社交的な行為自体が自分の披露の回復要因にもなるので「自家発電タイプ」なのです。
もう一方の社交性である「充電タイプ」は、「自家発電タイプ」の人とは少し異なります。
充電タイプの社交性を持っている人も、基本的に人が集まる場が好きなので、そこにいることで幸福感を感じるのですが、一方で人といること自体に使うエネルギーが多きいため、その場にいることでエネルギーを消耗してしまうのです。
幸福感が満たされるから人といることは好きだけれど、いすぎると磨耗するから充電する時間が必要。
これが「充電タイプ」の社交性です。

「自家発電タイプ」の社交性を持つ人は人との繋がり自体に楽しさや充足感を持つため、どれだけ時間を共有するかを非常に重要視します。
一方で「充電タイプ」の社交性を持つ人が人との関わりの中で楽しさを感じるのはそこで生じるやり取りの部分なので、そこで何を共有するかが重要になってくるのです。
前者の幸福度合いの指標が他者との共有面の面積の大きさであるとしたら、後者の幸福度合いは他者との共有点の数の多さであるというイメージ。
つまり「自家発電タイプ」は幾何で、「充電タイプ」は代数で幸福度を感じ取るわけです。

「自家発電タイプ」と「充電タイプ」の社交性の違いがどこから生まれてくるのか?
僕は、この違いはどのように自分を認識しているかの違いにあると考えています。
「自家発電タイプ」の人は自分のことを他者との関係の中で捉えるのに対し、「充電タイプ」は自己との対話の中で捉えます。
他者に対してどういう影響を与えることができたか、他者を通して自分はどのような影響を得ることができたのかが「自家発電タイプ」の自分の認識方法であるのに対して、「充電タイプ」の人たちは、自分とは何か、自分にとってそれはどういう意味があるものなのかという判断軸でものごとにあたるのです。
「自分とは何か」「自分にとってどういう意味があるのか」という問いかけには時間が必要です。そのため、「充電タイプ」の場合、ずっと人と時間を共有しているとその問いの時間が得られないために磨耗してしまうのです。
このタイプは時間を共有した分だけ、自分と向き合う時間が必要なのです。
反対に「自家発電タイプ」の人は他者との繋がりの中で自分の認識をクリアにしていくため、一人で向き合う時間ばかりだと、どんどん輪郭がぼやけてしまいます。
こちらのタイプの人の場合、一人でいる時間は他者との繋がりの中で明らかにしたい事柄を仕入れる時間なのです。

「自家発電タイプ」の社交性と「充電タイプ」の社交性は、完全に本人の好みによるもので、どちらが優れているといった類のものではありません。
ただし、その行動原理や認識方法はかなり異なっています。
だから、前者の社交性の理論に後者を取り込もうとすれば、たちまちその社交性は失われてしまいますし、反対に後者の社交性の理論を前者に適用させようとすれば、途端に魅力が失せてしまうことでしょう。
社交性とひとくくりにせず、それぞれの社交性(とそれの背後にある行動パターン)を理解することが、重要であるように思います。

 

 アイキャッチは明らかに両方の社交性の登場人物がバランスよく出てくるデリバリーシンデレラ