新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



誰が言ったか?何を言ったか?どう言ったか?

これは自分自身が根っからの悩んでいる人をひきつける体質だからなのか分かりませんが、よく会社の上司やバイト先の理不尽な客に怒鳴られて、落ち込んだり怒ったりしている人の相談に乗ることがあります。

で、そういった悩みを聞いていると、十中八九ところで僕にはそういう経験がないのか?という質問になるのですが、僕はこう聞かれるだびに、「えっ、だって犬に吠えられていちいち腹立てたり落ち込んだりしないじゃん?それと同じ感覚だからへこみもムカつきもしない(笑)」と返すことにしています(笑)

もちろん僕のこの返しは、ギャグみたいな意味合いも多分に含んでいるのですが、僕のキャラクターもあいまって、たいてい返ってくる反応はあきれたというものかドン引きかのどちらか…

相手を徹底的に見下したこの物言いが、生理的に受けつけないという人が多いみたいです。

 

「文句言ってくるやつなんて犬みたいにみれば?」というこの言い方、実は僕のオリジナルではありません。

元は2ちゃんねる管理人の西村博之ひろゆき)さんが自身の番組の質問に対する返答で使っていた表現。

あの小憎らしい表情と馬鹿にした態度から発せられる「犬に吠えられたからっていちいち怒んないでしょ?」がとてもしっくりきたので、意識的に使っています。

ひろゆきさんがこの言葉を使うのはだいだい、他者からの理不尽な声を必要以上に気にしている人からの質問に対して。

「そんなに他人のことばなんか気にしなくていいよ」という意味を込めて言っている場合がほとんどです。

ニッコリと微笑みながら「そんなに他人のことばなんか気にしなくていいよ」と言えば思いやりに満ちたとても優しいことばに聞こえるのに、「吠えてきた犬にいちいち腹立てる?」という言い回しとひろゆきさんのあの表情が合わさると、途端に煽っているようにしか聞こえなくなるので不思議です。

 

「そんなに他人のことばなんか気にしなくていいよ」という意味の言葉で、僕のなかでもうひとつお気に入りの言い回しがあります。

それが、ソクラテスが市場で侮辱されたときに言ったとされる、「愚かな馬が私を蹴ったとして、どうして私がそのことにいちいち腹を立てる必要があるのだ?」というもの。

こちらも言い方自体はひろゆきさんに負けず劣らず(というか下手したらひろゆきさん以上に)ひどい言い様です。

しかしながら、「ソクラテスが言った」という枕詞が付いたとたん、どこか高尚な響きに聞こえてしまうから不思議です(笑)

 

「誰が言うかでなく、何を言うかが大切だ」なんてことをよく耳にしますが、上の例をみてみると、やっぱり誰が言うかが大事だよなという気もちになります。

仮にひろゆきさんが言った「愚かな馬が私を蹴ったとして、どうして私がそのことにいちいち腹を立てる必要があるのだ?」と、ソクラテスが言った「犬に吠えられてもいちいち怒ったりしないでしょう?」と置き換えてみると、やっぱり前者の方がムカつく感じがします(笑)

誰が何を言うか?に加えて、僕はもう一つ、「どうやって言うのか?」も重要だと思っています。

「愚かな馬が私を蹴ったとして、どうして私がそのことにいちいち腹を立てる必要があるのだ?」も「犬に吠えられてもいちいち怒ったりしないでしょう?」も、もともとは「人の言葉を必要以上に気にするな」というメッセージです。

それをこんな言い回しにしたばかりに、急にトゲトゲした印象になってしまうわけです。

 

僕たちが人と話すとき、何を言うか?と誰が言うか?ということはよく意識します。

しかし、どうやって伝えるかになると、途端に意識が向かなくなる。

頭に浮かんだ内容について、頭に浮かんだ言葉のままで出してしまうので、結果相手に真意が伝わりづらかったり、場合によっては相手を怒らせてしまったりすることさえあるかもしれません。

逆に、ちょっと伝えづらいことでも、言い方を変えて、自分らしい言い回しにすれば、傷つけることなく伝えられることもあります。

人に何かを伝えたい時は、①誰が言うか?②何を言うか?③どうやって言うか?の3点セットで考える。

これが、伝わる喋り方のファーストステップのように思います。

 

アドラーの言いたかったことも、ひろゆきさんにかかればこの通り(笑)

アイキャッチひろゆきさんのこの本です。