新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



技術習得が得意な人が無意識にやっている6つの工程

ピアノを始めたばかりの子は、一音一音音を取る。
それが一年も経つと一小節ずつ捉えられるようになるだろう。
もしもう一年やれば二小節ずつ、翌年は一フレーズのまとまりで捉えられるようになるかもしれない。
そしてもし、そのままプロになったとしたら、その人は一曲を一つのカタマリとして捉えられるようになるだろう。


昔、指揮者のベンジャミン・ザンダーがピアノの演奏の上達過程をこんな風に説明していました。
(ザンダーはこれを実際にピアノを演奏しながら説明していました)
苦手な時は点で音を捉えるのに対して、上達するにつれてより大きな枠で音楽を捉えるようになるのだそう。


細部から徐々に視野を広くしていく。
ピアノに限らず何かを身につける際には多かれ少なかれこの過程をたどるように思います。
たとえば英語だったらまずは単語を覚え、文構造を意識して、一文単位で訳せるようになり、やがて文と文の繋がりに目を向け、最後に主題を捉えられるようになる。
たとえば手品だったら、まずは技法を覚えて、細切れで手順を理解して、一つのネタに仕上げて。
それができたら次はそのネタの演出を考えて、最後は一連のルーティンに落とし込む。
いきなり全体像を掴んでマネしようとしても当然うまくはいきませんし、反対にいつまでも視野が狭いままでは上達は見込めません。
細部から全体へ。
これを意識しているのとそうでないのとでは、何を身につけるにしてもその習得スピードは大幅に変わってくるように思います。


あくまで個人の経験則ですが、僕は何か一つで結果を出したことがある人は、別の物に挑戦する際にも(ほかの事で結果を出したことがない人と比べると)成功する確率が高いように感じています。
で、これはその人のスペックが高いから上手くいっているというのではなくて、物事を習得するための手順を知っているから、別のものも習得しやすいというのが最大の理由ではないかと思っています。

上にあげた習得方法を(少し強引ですが)抽象化すると、①対象の観察、②要素分解、③必要な基礎技術&知識の修得④技術の連結、⑤流れの理解、⑥演出といった順番といったところでしょうか。

もちろん物によってはいらない工程があったり、反対に足りない工程があるかもしれませんし、それぞれの工程の深さの次元は異なります。

しかし、一つのものを身につけようと思った時、おおよそこのプロセスを追っているように思うのです。

そして、複数の分野で一定の成果を出せている人は、意識・無意識とは別にして、このプロセスが身についている。

いわゆる「容量が良い」と言われる人は、天性の感覚でこれ手順を知っているのではないかと思います。

黒子のバスケに出てくる黄瀬くんは、相手のバスケのスタイルをコピーする名手として描かれていましたが、彼も上に挙げた手順を忠実に守っていたように記憶しています。

 

①対象の観察、②要素分解、③必要な基礎技術&知識の修得④技術の連結、⑤流れの理解、⑥演出

初めてのものに挑戦する際は、この6つの手順を意識するといいように思います。

 

アイキャッチは「分解」といえばこれしかないだろうという、料理の仕方を思い切って正四面体に分類した狂気の料理(解説)本、「料理の四面体」

料理の四面体 (中公文庫)

料理の四面体 (中公文庫)

 

 

コレサワ『たばこ』考察〜「たばこ」というモチーフにこめられた意図を追う〜

「信じてくれるなら話さなくても」
「悪いことしてないなら話せるはずじゃない」
「僕を信じてくれないんだ」
「私を信じて話してくれるんじゃないんだ」

バクマン。』に出てくる、主人公のサイコーと、ヒロインの亜豆(あずき)の、男女の価値観の違い故に起こるこのやりとり。

 

「相手はこう言っているけど、こちらにだって言い分はある」

 

程度の違いはあれど、ほとんどの人が一度は経験したことがあるのではないでしょうか?

そんな男女のすれ違う想いを、コレサワの『たばこ』を聞いてふと思い出しました。

 

主人公の「後悔」と日常の描写

知人がカラオケで歌っていたのをきっかけに、何となく好きになったコレサワの「たばこ」という曲。

改めて歌詞を見たとき、とてもいい曲だなあと思いました。

特に、「たばこの煙」の使い方が絶妙だなあと。

 

時系列を追って見ていくとまず、1番のAメロでは〈昨日の夜から君がいなくなって 24時間がたった〉とあり、そこで2人の関係がこじれてからしばらく経ったタイミングであることが知らされます。

そして直後に続く〈僕はまだ一歩も外には出ていない〉という歌詞から主人公(この場合「僕」)が、君が出ていったことにショックを受けていることが分かる。

Aメロのこの描写から、2人は喧嘩別れというよりも、「僕」が「君」を怒らせてしまったのが原因であるかのように伺えます。

その証拠のようにBメロで表れる「僕」の後悔の様子。

〈たばこの嫌いな僕を気遣って ベランダで吸ってたっけな〉

一緒にいた時の「君」の気遣いを思い出した直後、Bメロはこう続きます。

〈力一テンが揺れて目があつくなった もうそこに君はいない〉

恐らくカーテンの揺れは風に揺らされたのか何かなのでしょう。

万葉集にある「君待つと 我が恋をれば 我が宿の すだれ動かす 秋風の吹く」ではありませんが、主人公は揺れたカーテンを見て、たばこを吸いにベランダに出た「君」を思い出します。

この表現によって、主人公がどれだけ「君」を愛していたのかが聴き手に伝わってくるわけです。

そしてサビに。

 

〈「もっとちゃんと僕をみててよ
もっとちゃんと」 って その言葉が君には重かったの?〉

あえてわかりやすい解釈にするのなら、このサビのフレーズは、もっと自分のことを見て欲しいという、彼女への自分のエゴとも読みとれます。

表面的に歌詞を拾えば、彼女に別れを告げられるまで、彼女の気持ちなんて何も考えてあげられなかった主人公の後悔を歌った曲と見ることが可能です。

 

また、2番では〈僕のことはたぶん君がよく知ってる〉といい、いかに「君」が僕の細かな好みを知ってくれていたのかという内容が続きます。

そして、その後に続く〈僕は君のことどれくらい分かってたんだろ〉という言葉。

「君」が「僕」のことをよく知っていてくれた例として挙げられているのは寝ているときの癖やキスの好み。

対して「僕」が「君」のことで思い出すのは「好きなたばこの銘柄」です。

個人的に、この対比が凄いなあと思っています。

ここで、実は主人公は自分のことばかりで、「君」をみていなかったということに気がつきます。

そして〈もっとちゃんと君を見てれば〉というサビになる。

 

本当に主人公は「君」のことを見ていなかったのか?

こんな風に、終始自分が「君」のことを見てあげていなかったという後悔が綴られる「たばこ」ですが、本当に主人公は「君」のことを見ていなかったのでしょうか?

改めて主人公の行動を歌詞の中から追ってみると、実はそんなこともありません。

1番のAメロ〈マイぺ一スでよく寝坊する 君のことを想って 5分早めた家の時計もう意味ないな〉とか、たばこ嫌いの僕への気遣いなど、実は主人公も「君」のことをきちんと見ています。

もちろん「もっとちゃんと見て」と言ってしまうような自分のことばかりの態度に反省点はあると思ったのでしょうが、一方で主人公はきちんと「君」のことを考えていたわけです。

そもそも「もっとちゃんと僕を見てよ」という要求は、「自分はこんなに見ているのに」という感情がなければ出てきません。

僕はこの曲を聴いたばかりの頃は、「自分」ばかりで恋人のことを考えていなかった自分に対する後悔を歌った曲だと解釈していました。

しかし、繰り返し聴くうちに少し見方が変わってきて、実は主人公の後悔だけじゃなく、「お前ももう少しこっちのことを考えてくれてもよかったじゃん」という、別れた後の小言も歌われているのではないかと思うようになってきました。

この解釈に至ったきっかけが、最後のサビに向かう手前に出てくる、主人公が「たばこ」に火をつけるシーンです。

 

「たばこ」というモチーフにこめられた意図を追う

〈君が置いていったたばこ 僕の大嫌いなものなのに どうして火をつけてしまった 君の匂いがしたのさ 君の匂い ひとくち吸つてしまった でも やっぱりむせた〉

最後のサビの手前、主人公は「君」の思い出のひとつである「たばこ」に火をつけます。

まだ「君」のことを思っているようにも解釈できるのですが、反面、〈どうして火をつけてしまった〉〈ひとくち吸ってしまった〉と、「たばこ」を吸うことに後悔が漂います。

この作品の中で「たばこ」は、「僕」と「君」との接点であるはずなのに、それに触れる主人公からは、どこか割り切れない感情が読み取れる。

仮にこの場面で主人公が自分の言動のせいで「君」を傷つけたとストレートに思っているだけなのだとしたら、「君の思い出であるたばこを吸って煙が目にしみた」でいいはずです。

にも関わらず、この歌詞では他の感情を匂わす表現がなされています。

僕はこの表現と、前に出てきた主人公もそこそこ「君」のことを思っていたことが分かる表現を合わせて考えた時、主人公には「君にだって悪いところはあったんじゃないの」という、「君」をなじる気持ちが描かれている歌だと解釈するようになりました。

「僕の悪い所はいっぱいあるけど、君だって...」

これが「たばこ」で書かれた主人公の気持ちなんじゃないかなというのが僕の考え。

「僕」が「大嫌いなたばこ」を「吸った」とき、「むせた」というのは、全部「僕」が悪いと受け入れようと思ったのだけど、どこか受け入れきれない部分があったということのメタファーなんじゃないかなと思うのです。

 

そして最後のサビへ。

最後のサビでは〈「もっとちゃんと僕を見ててよ」〉という気持ちと〈『もっとちゃんと君を見てれば』〉という気持ちが並行して描かれ、2つの気持ちの間で揺れる主人公の心情が分かります。

そして、〈少し苦い君の匂いに泣けた〉と続く。

最後に「君」の思い出のたばこを吸って涙を流すわけです。

 

別れ際の心情は複雑です。

相手の悪い所を思い出す一方で自分も悪かったんじゃないかと思ったり、自分の態度を反省しつつも向こうにだって悪い所はあったんじゃないのと思ったり...

「僕の悪い所はいっぱいあったかもしれないけど、君だって...」
そんな、別れたばかりの繊細な気持ちを歌ったのが、コレサワの『たばこ』だと思うのです。

 

アイキャッチはもちろんコレサワの『たばこ』

たばこ

たばこ

 

 

 

答えのない「問い」に切り口を入れるスキル

ここ最近、ipponグランプリにはまっています。

もう、朝起きてから寝るまで、暇さえあれば流しているくらい(笑)

芸人さんの出す答えが面白いのはもちろんですが、それ以上に、芸人さんの思考過程をトレースするのにはこれ以上ないいい材料だと思うのです。

有吉さんはこのお題に対してどういう方程式を立てたのだろう?とか、大吉さんはどういう切り口をもっているのだろう?とかetc...

芸人さんが瞬発力で答えているからこそ、その人「らしい」切り口や引き出しがふんだんに映像に現れていて、「思考過程」を覗くのが大好きな僕としては、こんなに面白い番組はないんじゃないかと思うくらいです。

 

そんなipponグランプリですが、僕が最も集中して聞いている場面があります。

(どれくらいかというと、その場面になったらドライヤーをかけていても一旦止めてメモ帳を手に取るくらい...)

その場面が、お題に対して松本さんが切り口を提示する場面です。

 

ipponグランプリでは、それぞれのお題が提示されると、一定時間芸人さんたちに答えを考える時間が与えられます。

その時にダウンタウンの松本さんが自身のお題に対する感想を述べるのですが、これがむちゃくちゃクリティカルで面白いのです。

たとえば、有吉弘行さんと堀内健さんがサドンデス(予選終了時に同点だった場合発動する、先に会場の笑いを取った方が勝ちという勝負)に突入したときの話題は「わんこそばを入れる店員が100杯過ぎたころに考えることは?」というものだったのですが、これ対する松本さんのコメントは、「これはマンネリ化したときのあるあるみたいな感じですね」というものでした。

僕はこの抽象化を聞いて凄いなと思いました。

仮に僕たちだったら、「わんこそば」とか「150杯目」とか、具体的な部分を意識するはずです。

しかし、松本さんが言ったのは「これは切り口としてはマンネリ化したときのあるあるですね」という言葉。

「何かをずっと続けて退屈になってきたときのあるある」だったら共感を呼ぶ笑いが量産できると考えたようです。

実際、その後の有吉さんと堀内さんの出した答えを見ると、一本を取った答え以外は「わんこそば」に注目したもの(確か「もう丼で食えばいいのに」「ここで一回うどんいれようかな」「わんこ?おわんこ?」)であったのに対し、一本を取った答えは「一回だけ右手でいっちゃおうかな」という、マンネリ化したときの共感をさらうような答えでした。

 

また、「『100円拾った』というエピソードに尾ひれをつけて下さい」というお題の時、松本さんは「一見すると虫食い問題と同じパターンにも見えますが、「尾ひれ」ということなので、このお題の場合、前にも後ろにもつけられます。その辺をどう使うかですね」といった事を言っていました。

そして実際に答えた芸人さんたちは、初めは後ろにエピソードを追加する形で答えを作り、中盤から「100円拾った」の前にエピソードを付け加えるという形の変化球を投げていました。

これも「わんこそば」と同様に抽象化です。

 

僕たちは課題を見つけると、ついつい具体的な部分に切り口を見つけようとしがちです。

しかし、切り口とした部分が具体的であるほど、出てくるアイデアは限られてしまうし、凡庸なものになってしまいます。

一方、高度に抽象化した部分で切り口を見つけられたら、それに当てはまるパターンから仮説を量産することができます。

松本さんがあれだけ「笑い」を量産できるのは、もちろん言葉のセンスや天性の間の取り方もあるのでしょうが、それと同時にあの「物事を抽象化して捉える力」にあるのではないかと思います。

ipponグランプリを見ていると、そういう芸人さんたちの思考回路が見えてきて、とても良質な抽象化の事例集になっています。

そんなわけで僕は今、ipponグランプリにむちゃくちゃハマっていたりします。

皆さんももしよかったら見てみて下さい。

 

アイキャッチは科学で読み解く笑いの方程式。

科学で読み解く笑いの方程式[上巻]

科学で読み解く笑いの方程式[上巻]

 

 

 

アドバイスを求める人とアドバイス先を求める人~「慕われ難民おじさん」はなぜ生まれるか?~

僕は生徒にも、その保護者様にも知られる(生徒さんからの旅行のお土産がなぜか僕だけお酒というのもよくある話 笑)くらいにお酒が好きで、暇さえあれば飲みに出歩いています。
一人で行くときは、たいていカウンターに座るのですが、その際に若い女の子の店員さんやカウンターで同席した(恐らく年下であろう)お客さんにアドバイスをしたがるおじさんをしばしば見かけます。
実際僕自身もこんな見た目(茶髪にピアス)&ユルさ前回の話し方のせいか、ちょいちょい絡まれることも…笑
カウンターで飲んでいると、そんな「アドバイスしたいおじさん」をたくさん見かけます。

居酒屋でそんな「アドバイスをしたい人」を見かける一方で、僕の周りを見てみると、ひっきりなしに「アドバイスを求められる人」に溢れています。
行きつけの焼酎バーの大将は常連・ご新規さん問わず、毎日持ちかけられる相談に乗っていますし、また別の会社を経営している知人はいつも色々な人から相談の連絡を貰っていつもご飯に駆り出されています。
他にも、何人もそんな人がいます。
以前、こういった友人と二人で飲んでいたとき、一緒に飲んでいるのにLINEでお互いに別の人の相談に乗りながら、「俺ら何やってんだろう?」と笑ったこともありました。
これだけアドバイスを求められる人がいるということは、それだけ「アドバイスを求める人」がいるということでしょう。
一方で「アドバイスをしたい人」がいて、他方で「アドバイスを求める人」がいるのに、この人たちは決してマッチングするわけではない。
僕はそれが凄く面白いなと思います。

以前僕は、

あなたの褒めは求めてない~モテたい男がよくやる、間違えた褒め方。 - 新・薄口コラムというエントリの中で、褒めは誰が褒めるのかが重要というお話しを書きました。
アドバイスに関しても、これと同じことが言えると思っています。
同じアドバイスであっても、偶然出会った横柄なおっさんに言われるのと、信頼している職場のカッコイイ先輩に言われるのとでは、まるで違います。
前者の場合アドバイスがクリティカルかそうでないか以前に、そもそも話なんて耳に入ってこないんですよね(笑)
アドバイスを求められる人たちは、相手にアドバイスをする以前の段階で、しっかりと信頼を積み上げているのです。
その信頼の大きさに基づいてアドバイスを求める人はその相手を選んでいる。
アドバイスをする人は、アドバイスを「してあげている」ように見えて、実は「選んでもらっている」場合が多かったりします。
アドバイスをしたがる(つまり求められない)人ほど前者の認識でいる人が多くて、アドバイスを求められる人ほど後者の認識であるように思います。

アドバイスしてもらう相手として選ばれる人が日頃から信頼を獲得している人であるとしたら、アドバイスをしたがるけれど求められない人は日頃の信頼の積み上げがない、いわば「慕われ難民」と言えます。
慕われ難民おじさんは役職や年齢といった「差」に基づいたコミュニケーションをベースにしがち。
本人は相手が自分の言う事にしたがってくれるのは「信頼されているから」と思っていても、実際は役職や年齢が上だからしかたなくしたがってくれているという場合が少なくありません。
ついて来てくれる要因がその人の魅力起因なのか、役職や年齢起因なのかの認識を混同させてしまったまま年下とのコミュニケーションを続けると、その人はやがて慕われ難民おじさんとなるのだと思います。

さて、僕はこんな風に「アドバイスをしたい人」や「慕われ難民おじさん」について書きながら、まとめの部分で次の2パターンを用意して迷っていました。
①若者が「慕われ難民おじさん」から身を守る方法
②「慕われ難民おじさん」を脱出するための方法
どちらもいい結論が用意できていたのですが、文字数が増えすぎてしまったので、結論はまた今度書こうと思います(笑)
(毎度のことですが、「薄口」なので大目に見て下さい。。。)

 

 

見下すことからはじめよう

見下すことからはじめよう

 

 

「いい」意見も「悪い」意見も存在しないということ。

僕の中で、何人か定点観測している有名人、インフルエンサーがいます。
その中の一人、イケダハヤトさんが最近むちゃくちゃハマッています。
(もちろん主張の部分に対してではなく。あくまで「観察対象」として)
きっかけはイケハヤさんが自身のYoutubeチャンネルに先日アップした、『【対策も語る】「地方で高卒」だと「手取り10万円」が割と普通な件。』という動画です。
その中で語られていた「大学に行くのもいい」というお話。
イケハヤさんといえば、それまで大学なんてオワコンといった言動を始め、大学に否定的な発言を繰り返してきた方だったりします。
それがここに来て「大学って行ってもいいかも」という言葉を言い出したというのが、何か示唆的でいいなあと思いました。
僕は一貫して大学は行っておいた方がいい派なわけですが、やっぱりもともとは大学否定派で、しかもその意見で多数の賛同者を得ていた人が、(場合によってはという条件付ですが)大学に行った方がいいという主張をしてくれると、なんとも説得力が増すように思うのです。

みたいな感じで、書いていくのは簡単ですが、それではただの皮肉になってしまいますし、僕の「薄口コラム」のコンセプトとぶれてしまうので書く必要がありません(笑)
僕がいいなあ思ったのは、イケハヤさんが言った「大学なんて行っても意味がない」という主張にも、「大学に行った方がいい」という主張にも、何人かの賛同者がいたという部分です。
因みに、イケハヤさんの「大学に行った方がいい」発言は動画の一部分でのもので、過去の主張をひっくり返していっていたという類のものではありません。
あくまで、①地方在住で②手取りが十万ちょいになる事が確定しているのなら、大学に行くのがいいという趣旨のものでした。
(しかもその後にお金がなくても学校に行ける補助金みたいなものを紹介していて、そのお役立ち情報こそがこの動画のメインであったように思います。)
僕らは色々な意見や主張を聞いたとき、往々にしてその意見内容を吟味して、自分の頭で良し悪しを判断しているように思いがちです。
しかし実際には、その「正しい」という判断には、①無意識の内の発言者に対する信頼と、②そう言って欲しい主張をそうだと思い込むという形でバイアスがかかっています。
実は「そうなると思う主張」の多くは「そうなって欲しいという願望」である場合が多いんですよね。
「AIの発展により単純労働は取って変わられる」という主張には「そういう社会が来て欲しい」という欲求が多分に含まれているし、「勉強よりも行動が大事」という主張には「勉強よりも行動が大事であって欲しい」という欲求が多分に含まれています。
イケハヤさんの主張を支持する人もそう。
「大学なんていらなくなって欲しい」人は「大学はオワコンだ」という意見を支持するし、「大学はいらなくならないと思いたい人」は「やっぱり大学は行った方がいい」という意見を支持するわけです。
結局僕も含めて大体の人が、自分が正しいと思いたい主張を正しいと思い込むだけである。
イケハヤさんの動画を見ていると、そんなことが確認できて、個人的にはそれが非常に面白かったわけです。
一時のインフルエンサーのような印象になりがちのイケハヤさんですが、その能力は確かなんじゃないかと思うので、これからも定点観測はしていきたいなあと思います。

 

 

 

2割話が上手くなるための方法論[中編]

前編はこちらからお願いします(http://column-usukuti.hatenadiary.jp/entry/2019/10/01/142746)

 

前回、軽い気持ちで「面白そうに聞こえる話し方」についてまとめていたのですが、思いのほか長くなってしまい、分割していたので、今回はその続編です。

 

(2)面白く聞こえる表情について

僕が大学生の頃アルバイトをしていた塾に、授業中に毎回爆笑をさらっていくベテランのおじさん先生がいました。

この先生は、もちろんふざけているというのでもギャグを言っているのでもなく(多少ギャグはありましたが…笑)、きちんと教科の知識を説明しているだけ。

にもかかわらず、常に子供たちの笑顔が絶えず、「面白い」と評判の先生だったのです。

僕は同じ説明をしているはずなのに、そこまで生徒を笑わせている理由がずっと気になっていたのですが、その理由は、後にご飯に連れて行ってもらって分かりました。

この先生は。とにかく表情が面白いのです。

もちろん別に変顔をしているといったことではありません。

面白そうなことを言うときに、口元が「ニィ」となったり、話すたびに絶妙な笑い皺ができたりと、とにかく表情が面白さを演出していたのです、

 

この先生の表情作りが面白さを増強していると分かったからといって、それをそのままここに書いても仕方がありません。

今回の「話し方」のまとめのテーマは、再現性のあることなので、やっぱり声色のときと同様に、再現性のあるものを探し出し、3点に絞ってみました。

 

表情の作り方1「口角スマイル」

 

「面白そうに聞こえる話し方」を考えるにあたって、そもそも話をしている際に相手に心地よいと思ってもらえる雰囲気を作ることが大切です。

その一番の基本になるのが、「笑顔」でいることです。

話しをしていて面白いと感じる人は例外なく自然な笑顔で話し相手と接しています。

面白い話し方を身につけるにあたって、「自然な笑顔を作る」ことが、表情という観点においてはまず重要になってきます。

 

「自然な笑顔」が重要であるという話しは書いた通りですが、ではそれを作るにはどうしたらよいのでしょう。

よく考えたら、「自然な笑顔を作る」という言葉がそもそも矛盾しているようにも感じます(笑)

「自然な笑顔」は生まれ持った才能なのでしょうか?

「自然な笑顔を作り方」というテーマを考えるにあたって、思い出して欲しいふたりの芸能人がいます。

一人は新垣結衣さん(書くのが面倒なので、以下ガッキーにします)で、もう一人はYOSHIKIさんです。

彼らが話している動画を見てもらえれば明らかですが、二人とも常に笑顔です。

それも面白くて笑っているみたいなものではなく、デフォルトでさりげない笑顔を作っています。

僕がいう「自然な笑顔」とはこうしたタイプの笑顔のこと。

デフォルトの表情が笑っているだけで、話の雰囲気は驚くほどよくなります。

では、どうやってガッキースマイルのようなものを作ればいいのか。

やはり、ガッキーやYOSHIKIさんクラスの笑顔を作ろうと思ったら簡単ではないでしょう。

でも、今より2割笑顔に見せるのなら、そう難しいことではありません。

2割増しの笑顔を作るには口角をきゅっと上げてあげればいいのです。

口元がほんの少し上向いているだけでも、話しをした時の印象はよくなります。

この「口角をきゅっと上げる」というのが、表情作りの一つ目の要素です。

 

 

表情の作り方2「うる目ヂカラ」

 

面白そうに見える表情作りの第2は、目ヂカラの作り方です。

何を話しても面白く聞こえる人は、相手の話を聞くとき目を輝かせていて、相手に何かを訴えかけようとするときは、グッと相手の瞳の奥を見つめます。

人は自分の興味関心がある話を聞くとき、目が輝いている場合が多いです。

逆に言えば、目が輝いていることで、相手に「自分の話に興味があるのだろう」と思ってもらえます。

言うまでもなく、相手の話に興味があったりする場合は、勝手に目が輝きだしますが、こうした目の輝きはある程度自分で作ることが可能です。

そのやり方が、目頭に気持ち力を入れるという方法です。

目頭の部分、ちょうど涙腺のあたりに軽く「グッと」力を入れてみてください。

そうすると、目が輝き、目ヂカラが増します。

うる目と目ヂカラがつき、相手がこちらの表情に影響されやすくなります。

 

 

表情の作り方3「眉毛レバレッジ

 

表情に関するテクニックの最後は眉毛に関してです。

表情の豊かさを作るもののうち、最もコントロールしやすく、また効果が大きいものが眉毛です。

みなさん面白いと思う人(動画で調べやすいので、できたら芸能人がいいと思います)を頭に浮かべてみてください。

そうしたら、その人が喋っている動画を見て下さい。

恐らく驚いたり、困ったり、楽しかったり、何でもいいですが、感情を表現する際には、眉毛が非常に大きく動いていることと思います。

反対に、この人反応がよくないなと思う人を浮かべてください。

きっとその人は眉毛の動きが少ないはずです。

眉毛の動きを意識的に、少しだけ大げさにしようとするだけで、自分の感情がグッと前にでるようになります。

そして、感情の変化がわかりやすくなると、話している相手が共感しやすくなり、それが結果として面白く聞こえる話し方を構成する大きな要因となります。

 

以上3点、1口角スマイル、2うる目ヂカラ、3眉毛レバレッジが表情に関するポイントです。

身振り以降はまた次のエントリでまとめようと思います。

(結局長くなっちゃった…)

 

アイキャッチはガッキー

 

恋空

恋空

 

 

往復書簡[3通目](2019.10.02)しもっちさん(@shimotch)へ

福岡に住むバーのマスターと往復書簡をやっています!よかったらこちらからお読みください。

note.mu

しもっちさんへ

 

島原の虫の音が響く田畑の風景!とても素敵だと思いました。僕の頭にも、虫の音を背景音楽に、頭の垂れる稲穂が風に揺れる幼少期の地元の風景が頭に蘇りました。「頭に蘇りました」なんて書いて初めて気付いたのですが、同じ「虫の音」で思い浮かべる風景であっても、きっとしもっちさんが浮かべた九州の島の風景と、僕の頭に浮かんだ太平洋側の潮風が吹き込む風景とではまったく異なるものなのでしょう。(余談ですが、僕の生まれは静岡県浜松市です)

同じ言葉であるはずなのに、そこから思い浮かべる景色はそれぞれで異なっている。僕は文字というメディアの持つ最大の魅力の一つが、ここにあると思っています。

 

同じ「青」という言葉であっても、そこから連想する「青」という色が必ず微妙に異なっているように、あらゆる言葉をきっかけに頭に浮かぶ情景はそれまでの個人の経験に影響されるため必ずそこに個人差が生まれるように思います。どの落語家さんだったか忘れましたが、以前、『二階ぞめき』という落語を題材に文字情報の妙を話していたのを思い出します。『二階ぞめき』は吉原が好きな若旦那が主役の落語で、「そんなに遊郭が好きなら、家の二階に作ってしまえばいいだろう」という番頭のひと言で、家の二階に吉原を作ってしまう場面が描かれます。当たり前ですが、吉原なんて、家の二階に作れる規模のものではありません。にもかかわらずこの落語を聞くと、まるで本当に吉原が存在するかのように思えてくるわけですが、それは、落語家さんが語る架空の「吉原」を表す言葉を聞くたびに、聞き手が自らの経験の中にある情景を呼び起こし、それらをかき集めて一つの「吉原」像を作るからこそ成り立っているのだと思うのです。文字というメディアによって各々がまったくちがう「吉原」を頭に思い浮かべる。文字という、映像や音声と比べて情報量が少ない装置だからこそ作り出せる面白さだと思います。

 

さて、しもっちさんから頂いた、「自然」というキーワードと、情報量に関するお話を見て、僕は宮崎駿監督と庵野秀明監督が対談動画で話していた、アニメと情報量の話を思い出しました。「僕の描く絵はリアルだと言われるけれど、そこには汗臭さも、蚊にさされた鬱陶しさもないし、本当の自然と比べたら、情報量には雲泥の差がある」みたいなことを言っていたと記憶しています(もしかすると、僕が都合のいいようにアレンジしているかもしれません…)。宮崎駿さんが言っていたからというわけではないですが、僕は自然の持つ情報量のポテンシャルって凄いと思うんです。どんなにきれいな画質で撮れたとしても、最高の録音機を使ったとしても、再現される「自然」の情報量は、0と1に分解して再構築するというデジタルデバイスを通す限り、絶対に機器の性能の制約は受けますし、0と1に分解するときに失われた誤差は再現できません。その意味で、どれだけデジタルデバイスの性能が上がったとしても、情報量という観点からいけばオリジナル>デジタルという構造は崩れないんじゃないかなと思ったりしています。とかくITが注目を浴びる現在だからこそ、自然に触れて、自然のもつ純度100%の情報量に身を委ねるという経験が、今後の大きな武器になるのではないかなんて考えています。僕が自然と言われて思いつくのはこんな所です。

 

柄にもなく、まじめなことを書いてしまいました(笑)こんなんで答えになっていたら幸いです。

 

 

宮崎駿の雑想ノート

宮崎駿の雑想ノート