新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



進次郎文法とことばの妙

「今のままではいけないと思います。だからこそ、日本は今のままではいけないと思います。」

このフレーズを始め、「中身の無い」と批判されがちな小泉進次郎さん。

もちろん人の評価はそれぞれだと思いますし、実際に中身の無い発言も少なからずあるようには思いますが、一方で、彼の話す言葉の妙な説得力や、切り返しのうまさは凄いなあと思う事も多々あります。

今回のお話とは関係ありませんが、こちらの小泉進次郎さんのグロービスの「話し方」に関するスピーチは見事だと思います。

YouTube

 

そんな「進次郎文法」好きの僕のお気に入りは、先日国会で発言した「育休は休みではない」というもの。

前後の様々な文脈と合わせて、非常にいいなあと思いました。

そもそも僕は、小泉進次郎さんが育休を取得したことに大賛成です。

「中身がない」「客寄せパンダ(池上彰さんが選挙番組でこう表現)」なんて言われがちな小泉進次郎さんですが、裏を返せばそれだけの知名度があるということ。

そんな小泉さんが育休を取得するという行為は、自分の知名度を自覚しているからこそできる極めて優秀なイメージ戦略だと思いました。

 

僕はお金をかけたり法律を変えたりという「手間のかかる」やり方ではなく、既存のリソースを用いることで物事をうまく動かすみたいなやり方が好きだったりします。

例えば、2005年に小池都知事(当時の環境大臣)が提案したクールビズもそう。

暑がりの僕としてはなぜ28度なの?という不満もありました(実際にその温度に根拠はないそう...)が、クールビズという「名付け」一つで、お金をかけるでも法律を変えるでもなく環境への働きかけをしたという点では、非常に上手いやり方だったのではないかと思っています。

何よりネクタイ嫌いの僕としては、「ネクタイはいらない」という風潮を広めてくれたのが、非常にありがたいです(笑)

 

さて、そんな小泉さんの育休取得。

その効果についてタラタラ語るのは、僕の薄口コラムの本意ではありません。

僕が注目したいのは、「育休は休みではない」というこの言葉の部分。

僕は個人的に、「AはA'ではない」という進次郎さんのこの発言は、自身のそれまでの迷言への批判を踏まえた言い回しとしてあえて言ったものだろうと考えています。

これまで、何かを言っているようで実は何も言っていないという進次郎文法を度々指摘されてきた進次郎さん。

だからこそ、これまでの迷言を前フリに、今回の発言をしたのではないかというのが僕の読みだったりします。

こういう機転の利かせ方が、「育休は休みではない」発言に興味を持った大きな理由の一つです。

 

もう一つ、僕がこの発言が面白いと思ったのは、安倍さんの発言との関係です。

同時期に安倍さんは、「桜を見る会」の質問に対する返答で「募ってはいたが募集ではなかった」と発言しています。

こちらは進次郎さんの育休の名言とは違い、野党の追及を逃れるためのいわば迷言です(笑)

「育休は休みではない」

「募ってはいたが募集ではなかった」

構造的には非常に近いこの2つの発言が同時期に、真逆の印象を与えるものとして、同じ「国会」という場で発せられたことが、個人的に非常に面白さを感じたのです。

前者は言葉のあやを使って巧みに意図を伝える小洒落た言葉の使い方。

対して後者は言葉をぼかして自分の意図を誤魔化そうとする姑息な言葉の使い方。

これを以って安倍さんがどうという話をするつもりはありません。

ただ、言葉に対する向き合い方という点においてのみの僕の感想として、進次郎さんは言葉に対して紳士的なのに対して安倍さんは言葉に対して不誠実だなと印象を受けました。

(繰り返しますが、「国民に対して」ではありません。)

そんな比較も見られたという意味で個人的に胸アツだった小泉進次郎さんの今回の「育休は休みではない」発言。

思わぬところで出会った言葉の面白さでした。

 

微妙な意味の違いに関する面白さという点では、平手友梨奈さんの脱退について欅坂46のキャプテンの坂菅井友香さんが記者から「『卒業』と『脱退』の違いは何ですか?」と聞かれて困った表情を見せたときに、たまたま舞台で共演していたノンスタイル石田明さんが「辞書で調べたら出てくるんじゃないですか?」とボケで質問を晒していた所が印象的でした。

粋な言葉の使い方に関しては、辞書を引かず、相手の意図を汲んで楽しむのがいいのだろうなと思う反面、野暮な言葉の使い方は、辞書でキチッと定義づけするのが大事なんだろうなと思いました。

 

アイキャッチ中村雄二郎さんの「術語集」。

術語集―気になることば (岩波新書)

術語集―気になることば (岩波新書)

 

 

 

格付けチェックを信じる人とヤラセと思う人

先日、知人と飲んでいたとき、とあるきっかけからGacktさんの芸能人格付けチェックの話になりました。

内容はGacktさんの連勝記録がヤラセか否かというもの。

僕は当然のことながらGacktさんはヤラセなしだと思っていたので、そう話したのですが、知人の意見は真逆で、あんなもの連続でわかるわけがないとのことでした。

知人曰く、バイオリンの音やワインの味の違いなんてわかるわけがないとのこと。

僕はこれを聞いた時、とても面白いなあと思いました。

僕の中で、Gacktさんがヤラセではないと思った根拠となる部分が、まさに同じだったからです。

僕がGacktさんがヤラセではないと考える根拠も、まさにバイオリンやワインの味を見抜いているからという部分でした。

ただし、解釈は間逆。

僕の場合は、「バイオリンの音やワインの味は明らかに違う」だから「Gacktさんはヤラセじゃないという判断です。

この、細かな違いは当然分からないものとする知人の判断と、僕の細かな違いははっきり分かるという判断の差が、とても面白いなと思ったのです。

 

僕の行きつけのお店の大好きな大将は、大の焼酎好きで、同じ銘柄であっても、ロットの違いによる微妙な差にも一瞬で気づくくらいの感覚を有しています。

あるいは、僕のゲーム友達は、音を聞いただけで相手の使用武器を特定するばかりか、聞こえる足音で距離や位置を全て補足してしまいます。

また、ジャンルは違いますが、僕の場合で言えば、例えば生徒さんが持ってきた問題に関して、どこかの過去問であれば、結構な割合で見ただけで「何年のアレか」って分かったりします。

僕にとって「細かな違いに気が付ける」っていう能力は、決して信じられないスキルではなく、ごくごくありふれたものなわけです。

だから、多分野においてそれをし続けるGacktさんのことを凄いとは思いますが、それがヤラセとは思えなかったのです。

 

対して知人は、一つのものを突き詰めるというよりは、早く手数が多いのがウリの戦い方をするタイプ。

深く考えるとかではなく、即断即決で最悪手だけは選ばなきゃみたいな戦い方が得意なタイプです。

だから、彼にとってはそんな細かな「差異に気づける」という可能性に頭を傾けるという選択肢がなかったようなのです。

そんな差異に気づくことはない。だからGacktさんはヤラセだと。

 

差異に気づくか気づかないかということが、社会でうまくやっていくことに関係するかといわれれば、正直全く関係ないように思います。

むしろそんな能力は必要ないのかもしれません。

ビジネスの分野ならそういう差異を思い切って切り捨てて、スピーディに立ち回った方が結果は得やすいでしょう。

いまの社会はそういう戦い方ができる人が求められているし、そういう戦い方ができる人が勝ちやすい仕組みになっている。

ボリュームゾーンを狙うなら、間違えなくこちらを取る方が効果的です。

 

ただ、こうした差異に気づく人は一定数存在しています。

そして、こういう差異を楽しむコンテンツを求めている。

現在、次々にいろいろな商品やサービスが生まれていますが、こういうタイプのものはどんどん少なくなっているように思います。

だからこそ、差異に気づく感度を養っておくことは、今後の社会で価値提供する上で、意外な武器になっていくんじゃないかなと思ったりするわけです。

 

Gacktさんの格付けチェックの話をしていて、そんな風におもいました。

 

 

 

往復書簡[7通目](2019.11.26)しもっちさん(@shimotch)へ

前回のしもっちさんからの書簡はこちらです。

 

note.com

 

拝啓 しもっち様

「秋になれば食に読書に紅葉狩りに…」なんて、やりたいことをあれこれ思い描きつつ、夏を耐えしのいでいるうちに、気がつくとグッと気温が下がり、京都は冬に包まれていました。
僕が夢に見た秋の喜びはいつの間に過ぎ去ったのだろうかと、開け放しの窓から吹き込む朝の冷気に頬を叩かれながら思い返す昨今です。
しもっちさんの推察どおり、こちらは中々の寒さです。(月末に来る際は厚手の服装をお勧めします)

毎度のことですが、こちらからの無茶振りに、「いき」から「エモい」まで広げた風呂敷を構造主義で纏め上げるしもっちさんのセンスに脱帽です。
以前の書簡でこのお題を頂いて以来、専ら僕は日本の美意識の沼にはまり、手に取る文章で日本の美意識に出会う度に、メモ帳を開く毎日が続いています(笑)
そんな美意識を巡る旅の最中に、侘び寂びから派生する、水へと溶ける氷に美しさを見出す心敬の「ひえさび」や、硝子に射す光の反射と透過に美を求める篠原資明の「まぶさび」などのさまざまな「寂び」と出会って、相違点から「詫び」を、共通点から「寂び」を考えたりしています。
しもっちさんのような、時代を縦に跳躍して日本の美意識に迫る力はないので、僕は「詫び寂び」という点を反復横跳びして対抗してみました。

さて、この書簡がまさにそうなのですが、僕も楽しくなるとついつい難しい方向へ、難しい方向へと話を持っていってしまいます。
普段授業をする際は、そうした方向に話が飛ばないようにと気をつけています。
以前テンションがあがって、その形状から福建土楼パノプティコンを引き合いにだし、贈与と功利主義について熱弁して、教室を凍りつかせたことがあります。
(一人だけ、飛び出そうなくらいに輝いた目を見開いてくれていましたが…笑)
これでも一応「指導のプロ」ということで、こうした自己満足の語りにならぬよう日々伝わる説明の仕方を探っています。
僕が特に普段の授業で心がけているのは、生徒さんの持つ既存の知識と未知の知識の接続です。
イアン・レズリーが、『子供は40000回質問する』という本の中で、好奇心は知っていることと知らない事の狭間でうまれるというようなことを言っています。
ジョージ・オーウェンは一九八四年の冒頭で、「13時の鐘」という不自然な鐘の音で、既知と未知の間を読者に示しているし、スーパーマリオでは「右に進めばいい」という既知と「何が起こるか分からない」という未知が用意されています。
勉強でも同様に、既知と未知の導線を用意してあげる事が大事だと考えています。

たとえば、無い美しさに思いを馳せる「幽玄」という美意識は、言葉で伝えようとしても中々伝わりません。
でも、「好きなマンガがアニメ化されたとき、主人公の声に『なんかちゃうな?』って思った事ない?それって頭の中では理想の声があったんやろ?そのイメージで浮かぶ理想に近いのが幽玄なんよ」みたいな伝え方をすると、納得してもらえます。
ただ、そこで終わらせてしまえば、子供たちの好奇心は広がりません。
先の話で言えば、子供たちの既知の世界を出ていないということです。
そこで、兼好の「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。-中略-咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。」や、藤原定家の「見わたせば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」などを紹介します。
そうすると初めて既知と未知が結びついて、「幽玄」という概念や、場合によっては古典や和歌に興味を持ってもらえるわけです。

なんて、本業の話になるとついつい熱が入ってしまいました…
むちゃくちゃ気持ちがいいパスを頂いたので、偉そうに「分かりやすい説明」なんて書いてしまいましたが、「人に対する説明」ということでいえば、日々お客様との「乱取り」をしているしもっちさんも相当だと思います。
ということで、「人に伝えるコツ」という、同じボールを返球させていただきます。

P.S 来週お会いできることを楽しみに、レヴィ・ストロースに漬かる今日この頃。

 

 

野生の思考

野生の思考

 

 

往復書簡[5通目](2019.11.3)しもっちさん(@shimotch)へ

前回のしもっちさんからの往復書簡はこちら!

https://note.mu/shimotch/n/n32c2e4a93495

 

拝啓しもっち様

旅先の見知らぬ街の一角で不意に出会うあの懐かしさ。僕も何度も経験したことがあります。(僕の場合は海辺の街に行ったときによく感じます)

何が、どう「懐かしい」のか、その時はうまく言葉にできないのだけれど、確かに懐かしさを感じている。

あれ、不思議ですよね。

潮の匂いを鼻が捉えたからなのか、はたまた吹きつける浜風が原因か。あの「懐かしさ」は視覚や聴覚以外の記憶が呼び起こされるのが原因なのではないかと思ったりしています。

 

僕にとっての島原といえば、社会の授業で扱った天草四郎雲仙岳、それからしもっちさんから頂いた書簡を読んですぐに調べた写真の中の絶景の数々です。この往復書簡をきっかけに、紙の上の文字でしかなかった僕の島原に色彩が宿りました。まだまだ音は無いので、いつか機会があればぜひ訪れてみたいです。

 

しもっちさんからの書簡を受けて、言葉についてあれこれ考えていました。同じ言葉であってもそこからお互いが連想する情景は異なっている。にもかかわらずお互いがその言葉について共通理解ができる。前回の「城」の例でいえば、しもっちさんの頭にあるのは「島原城」で、僕の頭に頭に浮かんだ「浜松城」とは明らかに違うのに、「城」という言葉そのものは、何の違和感もなく使えている。

本当に言葉って面白いですよね。

 

言葉について考えている内に、言葉の印象は、それまでの自分の体験の集合知なのではないかなんて考えに至りました。例えば僕が島原という言葉を聞いた時、これまでは教科書で見知った種々の知識の集合体としての「島原」が思い出されました。でも今は、そこにGoogle検索で調べた島原の海の風景や武家屋敷跡、そして何よりしもっちさんという存在が紐付いています。この書簡を始める前と後では、明らかに僕にとっての「島原」という言葉の解像度は変わりました。言葉の輪郭が自分の体験と紐付いているのだとしたら、ひとつひとつの言葉を鮮やかに保つために、きちんと経験を積まなければなあと、背筋が伸びる思いになりました。

と、書いたところで出口治明さんの「人・本・旅」なんて言葉を思い出しましたが、脱線してしまうのでここはグッと堪えます(笑)

 

九鬼周造の『「いき」の構造』僕も大好きです!(論文読書会、うらやましいです...!)「いき」を媚態、意気地、諦観という3つの要素に分けてみせたのは本当に凄いなと思います。ただ一方でどうしても、この定義では、どこか「いき」を掴みきれないのではないかと思ってしまう僕がいたりもします。これはひとえに僕の経験がまだまだ未熟だから「いき」を捉えきれていないだけなのか、それとも「いき」そのものが時代と共に変わってきたからなのかは分かりませんが、いずれにせよどこか非常に言語化しにくい部分で「もっとこんな感じ!」というモヤモヤが燻っている気分です。

 

モヤモヤの正体が気になりすぎて、ここの所ずっと考えていたのですが、この前ふと、このモヤモヤの正体は個人の「美意識」なんじゃないかという解が頭に浮かびました。媚態、意気地、諦観を持ちつつ自分の美意識を貫く姿勢。これが「いき」なんじゃないかと思った訳です。こんな定義で「いき」を考えると、不粋な人とは媚態、意気地、諦観のいずれかを持たずに自分の美意識を押し通そうとする人、野暮な人とは美意識を持たない人となります。「いき」という言葉について、僕はこんな風に思いました。

 

因みに「いき」について考える過程で、「婆娑羅」「侘び寂び」「数寄」「をかし」「みやび」など、様々な日本らしい感覚に出会い、現在僕は、「いき」と共にそれ以外の日本ならではの価値観にも興味が芽生えつつあります(笑)「いき」に関する考えはもちろんですが、その周辺にある日本的な価値観について、しもっちさんの視点を頂きたいです。

 

 

すっかり「いき」の沼にハマっている十一月上旬のころ。

 

いきと風流

いきと風流

 

 

 

 

椎名林檎『公然の秘密』考察~「匂い」をヒントに曲に漂う「エロさ」を探る〜

「なんちゅうエロい曲を作ったんだ…」
椎名林檎さんの新曲、『公然の秘密』を聴いたとき、真っ先に僕の頭をよぎった感想はこうでした。
ここの所精力的に曲をリリースしていた(ように僕には思える)椎名林檎さん。
ファンとしてはどの曲も好きではあるのですが、特に『公然の秘密』は頭一つ抜けて惹きつけられました。

 

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(youtubeからお借りしました)


僕が聞いた瞬間に惹きつけられた最大の理由が、冒頭に書いた直感的なエロさでした。

直感的に「エロい!」(もちろん褒め言葉です)と思った直後、次に考えたのは、なぜこの曲を聞いて直感的に「エロい」と感じたのか?という部分でした。
椎名林檎さんの声質にジャズ調のアレンジが合わさってそのように感じたのだというのもありますが、それだけでは説明のつかない何かがあるように思ったのです。
僕が直感的に感じた「エロさ」は、歌詞を読んだときに答えが分かりました。
それはこの曲の歌詞に多用されている「匂い」の情報でした。

匂いが直感的に語りかけるワケ

快い匂い、嫌な臭いというのはきわめて強烈なことが多い。快い匂いから、わが国では香道が生じ、西洋では香水産業が発達した。歴史上、香料はじつにインドへの道を開いたのである。嫌な臭いからは誰でも逃げ出す。私だって逃げる。イタチやスカンクはそれを利用する。最大の嫌がらせは、他人の家に嫌な臭いをまくことである。(養老孟司『からだの見方』)

養老孟司さんは、『からだの見方』という本の中で、養老さんらしいこんな言い回しを交えて嗅覚情報が、他の情報(視覚情報、聴覚情報)に比べて感情を強く呼び起こすことを指摘しています。
養老さんによれば、視覚や聴覚が言語に結びつきやすいのに比べて、味覚や嗅覚は、情動に関に結びつきやすいのだそう。
このことから考えると、「匂い」に関する表現を見ることによって呼び起こされる印象は、視覚や聴覚と比べ、「情動」と結びつきやすいといえます。
したがって、「匂い」に関する表現が多用されている『公然の秘密』が、感情と結びつきやすいのではないかというのが僕の考えです。

嗅覚情報のみで構成された『公然の秘密』

歌詞が凄いといわれるアーティストの曲を見ると、一つの情景が様々な感覚情報から描かれている場合が多々あります。
例えばaikoさんの『カブトムシ』の2番のAメロでは、〈鼻先をくすぐる春 リンと立つのは空の青い夏 袖を風が過ぎるは秋中 そう 気が付けば真横を通る冬〉
と、僅か8小節の中で「鼻先」(嗅覚)、「空の青」(視覚)、「袖を風が過ぎる」(触覚)と3つの感覚情報を込めています。
あるいはBUMP OF CHIKENの『スノースマイル』は、「君の冷えた左手」(触覚)、「『雪が降ればいい』と口を尖らせた」(聴覚)、「雪の絨毯」(視覚)と、全編を通して様々な感覚情報によって歌詞が構成されています。
僕たちは多くの感覚情報を与えられるほど、頭の中にその情景を鮮明に描くことができます。

一方で、あえて感覚情報を減らすことで、特定の感覚に訴えかけることができるようになります。
椎名林檎さんの『公然の秘密』は、まさにこの典型例だと思うのです。
歌の中に出てくる嗅覚情報を順に列挙すると以下の通りです。
〈美味しそうな匂い〉〈一旦嗅いだら〉〈拐かす匂い〉〈評判のフレーバー〉〈嘘を乗せたトップノート〉〈初々しいバニラ〉〈甘やか〉〈いま流行のフレーバー〉〈悔いを残すラストノート〉〈スパイシー〉〈シナモン〉〈ほろ苦い〉〈チョコレート芳しい〉〈フェロモン〉
(※「トップノート」「ラストノート」は香水の香りを表すときの言い方です)
一曲の中にこれだけ「匂い」を示す情報があるのに対して、この曲では他の感覚情報が一切描かれていません。
椎名林檎さんはかなり意識して嗅覚情報以外をシャットアウトしてこの曲を書いたのではないかと思うのです。

言語化と結びつきやすい視覚情報と聴覚情報をあえてカットして、感情に結びつきやすい嗅覚情報だけで構成することで、より直感的に歌詞の世界観を伝える。
これが、初めて『公然の秘密』を聴いたときに僕が直感的に感じた「エロさ」の招待ではないかと思うのです。

 

アイキャッチはもちろん公然の秘密が収録されたこのCD

 

 

 

『天気の子』感想ー『天気の子』は『君の名は。』の彗星を主人公にした作品!?

昨日、ちょうどTL上に何度か『天気の子』について流れてきて、そう言えば見に行った感想をまとめていなかったことを思い出しました。

前作『君の名は。』と合わせていろいろ気になるところがあったので、このタイミングでまとめることにしました。

 

何重もの「結び」の構造になっている『君の名は。

天気の子に関しては、主人公たちの周辺にある小物(帆高がカップ麺の重しに使っている「ライ麦畑でつかまえて」とか、陽菜の首元の浮遊石を思わせるネックレスなど)や、何度か登場した天に逆らうモチーフなど、気になる部分はいくつもありましたが、僕が最もきになっているのは、前作『君の名は。』との関連でした。

評論家の岡田斗司夫さんが以前、自身の番組で『君の名は。』をとりあげたとき、『君の名は。』は何重にも「結び」が描かれた作品だと評していました。

確かに、『君の名は。』を表面的に見れば滝と三葉の2人が時空を超えて結ばれるお話みたいに見えますが、細かく見ていくと、その周辺にいくつもの「結び」が描かれています。

その一つが、村人を避難させるために三葉が父を説得する場面。

それまで三葉の声に一切聞く耳を持たなかった父が、「入れ替わり」を告白された瞬間に態度を一変させて、三葉(中身は滝)の行った通りの指示を出します。

この場面はさりげなく展開しているので見落としがちですが、時系列を考えれば、三葉(滝)の入れ替わりを知って話を信じたと考えなければ辻褄が合いません。

展開を時系列に並べて考えれば、父は入れ替わりを知って態度を変えたということになるわけですが、そうすると今度は「なぜ父は入れ替わりなんていう荒唐無稽な話を信じたのか?」という新たな疑問が浮かびます。

この答えのヒントはおばあちゃんが三葉の入れ替わりを見抜いた点にあります。

おばあちゃんは、三葉の中身が入れ替わっていることを見抜いた時、「私も同じ体験をしたことがある」「代々そうした家系」というようなことを言っています。

おばあちゃんの話が正しければ、当然三葉の母親も入れ替わったことがあると考えるのが妥当です。

では、その相手は誰なのでしょうか?

作中には登場しない三葉の母親ですが、その入れ替わりの相手が三葉の父であることは明らかです。

でなければあそこで父親が「入れ替わり」なんて話を信じる理由がなくなってしまうからです。

三葉の父は自分自身も入れ替わったことがあり、そのことを知っていたからこそ、三葉の言葉を信じたのだと思うのです。

とすると、ここに三葉と滝以外に、おばあちゃんとその相手との「結び」、そして直接は表現されていませんが、父と母の「結び」が描かれていることになります。

 

もう一つ、岡田斗司夫さんは『君の名は。』に関して、設定レベルの部分での大きな『結び』を指摘しています。

それは、彗星についての物語です。

設定では、糸守町にある湖は、何千年も前にティアマト彗星が地球に接近した際に分裂して落ちてきた隕石が原因とされています。

そして彗星は何千年という周期で地球に近づいてくる彗星です。

落ちた隕石を「片割れ」と考えると、数千年の周期でやってきたティアマト彗星は、数千年前に別れた片割れに会いに来たと見ることもできます。

つまり、隕石と彗星自体も巨大な「結び」の構造になっているわけです。

ずっと昔に離れ離れになってしまった相手に数千年の時を超えて会いに来た。

でも、その「結び」は人類にとって大きな災害をもたらすものである。

設定自体も巨大な「結び」となっているというのが岡田さんの指摘です。

 

僕はこの岡田さんの解釈を支持するとともに、実は新海監督が描きたかったのは、この彗星の結びの方だったのではないかと考えています。

きちんと売れることを意識したからこそ、中心には三葉と滝の恋愛を据えているけれど、本当に描きたかったのは、「愛するものが自分たちが結ばれることを願えば、それは周囲に多大な迷惑を与える」という部分だったのではないかと思うのです。

そして、それをこっそりとティアマト彗星というモチーフに忍ばせた。

これが僕の考える(あくまで個人的な)『君の名は。』の見方です。

 

『天気の子』はティアマト彗星をそのまま主人公に据えた作品!?

さて、そんな僕の『君の名は。』評ですが、こう考えると、『天気の子』には『君の名は。』と共通のモチーフが描かれていると見ることができます。

天気の子では、帆高と陽菜は東京中が永遠の雨に見舞われる事と引き換えに自分たちが結ばれることを選びます。

そして、そこにたどり着くまで周りの大人の幾重にも重なる大人の障害が立ちはだかる。

それだけでなく、それまで自分たちのことを大切にしてくれた人を何人も犠牲にします。

圭介は暴行で逮捕されたでしょうし、夏美も間違えなく免許剥奪です。

さらに、作中で助けたおばあさんも降り続く雨のせいで亡くなった夫との思い出の家を引っ越さねばなりません。

2人が結ばれるというただそれだけのために、とんでもない量の犠牲が払われるわけです。

それでも2人は、自分たちが結ばれることをえらんだ。

僕にはこれがちょうど、『君の名は。』におけるティアマト彗星で示されたモチーフに思えるのです。

これまでの新海さんの作品では、そのモチーフは怖くて

出会わせなかったり、間接的に災害という形で描いていました。

しかし、『天気の子』になって初めてそれを正面から描いた。

しかもそれをハッピーエンドに持っていた。

これが僕が『天気の子』を見たときの感想でした。

一見するととうやってもバットエンドになりそうなこのモチーフできちんとハッピーエンドに落としたという意味で、僕はこの作品が凄いなあと思っています。

 

時間がなくて中途半端になってしまいましたが、僕の感想はこんな感じ。

アイキャッチは天気の子

 

天気の子

天気の子

 

 

 

習慣の分類と習慣化したいことを習慣にする方法(前編)

先日webサービスの質問箱を開いたら、習慣化するための方法みたいな質問を頂いていました。

初めは質問箱で答えようと思ったのですが、考えるうちに文面が長くなってしまったので、ブログで改めて書くことにします。

 

まず、質問箱で頂いた質問は以下の通りです。

「毎日、習慣で取り組んでいることはありますか?また、習慣化するために意識していることはありますか?」

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この質問に対して、僕は以下のように答えました。

 

この仕事を初めてから、毎日一本入試問題を解いて教案を書くというのを続けています。
この習慣に関しては「せめてこの程度はしなければ」という不安からくるものなので、習慣にするために意識していることはあまりありません。

僕が習慣でやっていることはいくつかあるのですが、いずれも僕の行動欲求は必要に駆られて、とか不安な気持ちを和らげるためにみたいな物なので、この回答も含め、おそらく質問者さんの希望した「答え」ではないのではないかと思いました。

ぱっと見の振る舞いが飄々としているので、多分もっと「ずる賢い」とか「使える」答えを期待したのではないかなと…笑

ということで、改めて「習慣化」について考えてみました。

 

習慣の4分類

毎日マラソンを続けるのも習慣ですが、空き時間にスマホを開いてゲームをするのも習慣です。

或いは決まった日の仕事終わりに行きつけのお店に顔を出すのも、手持ち無沙汰な時にタバコに火をつけるのだってそう。

そもそもひとくちに「習慣」といってもさまざまな物があります。

これらを同じものとして習慣について考えても上手く行きそうにないので、まずはこれらの習慣を分類してみたいと思います。

 

身近な習慣を挙げていったとき、僕は習慣とは「やりたい/やってしまう軸」と、「ポジティブ/ネガティヴ軸」で4つに分類できるように思いました。

 

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いわゆる習慣化したいという人が言っている「習慣」とは、おそらく第一象限にある「やりたい/ポジティブ」なことであるように思います。

反対に「ある習慣をやめたい」と言った文脈で使われる場合の「習慣」は、第三象限の「やってしまう/ネガティヴ」が多い。

また、さまざまなものを習慣化できていると思っている人が人に「習慣化することが大事」という時に使う「習慣」の多くは、その人にとって第四象限である場合がほとんどです。

たまたま、文章を書く特性が物凄くあって、書かずにはいられないような人が、「私は頑張ってブログの更新やtwitterのつぶやきを習慣にしました。」みたいにおっている場合がそう(笑)

あれは、その人のやり方がうまかったから(第四象限的な)習慣にすることができたのではなく、たまたまその人にとって「書くこと」が第四象限に属していたというだけの話なんですよね。

因果関係が逆だから、そのやり方には再現性がない。

 

「習慣化したい」という人の求める習慣化の方法というのは、第一象限的な習慣のことだと思うのです。

ということで、後編では第一象限的な、つまり意識して習慣にしたい物事について習慣化する方法について考えていきたいと思います。

(本当は全部書くつもりだったのですが、そろそろ仕事に戻らないとやばい…笑)

 

アイキャッチは習慣化のヒントが載っているこの本。

「ついやってしまう」体験のつくりかた 人を動かす「直感・驚き・物語」のしくみ

「ついやってしまう」体験のつくりかた 人を動かす「直感・驚き・物語」のしくみ