新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



自分のやりたい事を伝えるのがとにかく苦手な人への処方箋

僕は何でもかんでも分析したりジャンル分けしたり説明することが大好きだったりするのですが、反面自分の事には興味がなく、自分の「好き」や「おもろい」を人に伝えたり、自分のやってきたことを言語化したりといったことが非常に苦手だったりします。

なんというか、観察対象として自分に興味がないのです。

 

そんなわけで就活の時には非常に苦労した記憶があります。

いやっ、就活を終えた後、フリーで働き始めたときも、NPOで活動に賛同してくれる支持者の方や採用面接をするときなども「自分について語る」ことが苦手でした。

 

そんな僕でも、(一応は)社会人をしてそこそこ経験を積む中で、少しは自分語りができるようになりました。

(これは克服したとかではなく、数こなすうちに勝手に馴れたというのが近いです)

 

僕がこれまでにやってきたことのうち、うまく続いたもの、逆にうまく続かなかったものを元にその違いを出すと、根っこにある価値基準は「知りたい」にあるように思いました。

入試問題でも所属する社会でもなんでもいいのですが、仕組みや全体像など、何かしら目の前の事象に「知りたい」という気持ちが働くと、僕は自分らしく立ち回ることができるみたいです。

さて、こう書いておいて何ですが、自分の行動の源泉が「知りたい」にあることはだいぶ前から自覚しています。

ただ、だからといってその「知りたい」をそのまま伝えた所で、1ミリも相手に伝わらないわけです。

どんなにその「知りたい」欲求を語っても、「で、あなたは何をしたい人なの?」と言われたり、「やる気が見えない」なんて言われたりする(笑)

(同じタイプの人なら絶対にこういう経験あると思います)

僕たちみたいなタイプの人が相手に熱量を伝えるには、「知りたい」をもっと言語化する必要があるようです。

 

僕の「知りたい」という欲求から始まった活動を見ていくと、そこには①集めたい(分析・収集)、②やってみたい(経験・公式化)、③広めたい(拡散)のフェーズがあったように思います。

まず興味を持つと、とにかくそれに関連するものを集めて分析してみたくなる。

これが①のフェーズです。

それがある程度行くと、今度は実際に自分が作り手の側になってみたいという欲求が生じてくるわけです。

このフェーズが②。

さらに(これは最近になって気づいたのですが)②のフェーズも終わると、こんな公式を見つけたんだ、こんな法則があるんだということを周囲に発信したくなります。

これが最後の③のフェーズです。

僕の「知りたい」欲求は、好奇心から派生して、①集めたい→②やってみたい→③広めたいと進化していくイメージなのです。

 

こんな風に自分の欲求について3つのフェーズに分けてきたわけですが、僕が今回のエントリで指摘したいのは、自分語りをする際に「知りたい」というはフェーズ②以降(できれば③)でなければ他者の共感を得られないという所です。

これまで何度も①のフェーズの説明を熱心に、事細かにしてきたのですが、全く相手には響きませんでした。

「知りたい」というのが欲求の根っこにない人にとっては、集めることそれ自体は欲求の中心にはなりづらいわけです。

例えばトレーディングカードとかで、みんなと遊びたいとか友達に勝ちたいという感情には共感されやすいのに比べて、カードを集めることそれ自体が好きという感覚は理解されづらいものです。

だから自分の「知りたい」って気持ちを相手に伝えようとしたらきちんと味付けをしなければならない。

それが、②やってみたい、③広めたいというフェーズで語るということなのです。

 

②やってみたいというフェーズで楽しんでいることはネタになります。

そこで得られた経験や知識は、他の人が知らないものなので聞いていて楽しいわけです。

そして、その話の深さや独自性みたいなものがあると、それらを通して相手に「熱量」が伝わります。

逆に言えば、ただ体験した程度では相手に熱量を伝えるまでは至りません。

(これが、上で「できれば③」と書いた意味です。)

例えば僕はブログを書いたり、作曲をしたり、農業をしたりとしているのですが、これらはやっていたら嫌でも「ならでは」のエピソードが出てきます。

そういったエピソードを次々に語れば、自然と「この人は好きでやっているんだな」というのが伝わるわけです。

そこで、「こういったことを『知る』ことが好きなんです」と伝えれば、普段は伝わりづらい、「知りたい」という欲求が相手に伝わります。

②のフェーズでは、エピソードを集めることで相手に自分の熱量を伝えることができるのです。

 

普通相手になかなか伝わらない「知りたい」という熱量を伝える方法としてもっとも有効なのが③の伝えたいフェーズで物事にのめり込んでいる場合です。

「知りたい」という欲求の発露から集めてみたいと思いコレクションを始め、そのうちにやってみたくなり、そして一定までいくと、それを人に広めたいというようになります。

この欲求までくると明確に相手に価値が出てきます。

③の広めたいというレイヤーで楽しめていると、変に言語化したりエピソードを用意しておく必要もありません。

ただ自分の言葉で話すだけでそれが広報になる。

僕の場合だったらそれが教育だったりします。

国語の入試問題ってこんなに素敵なんだよっていうのを伝えたくて仕方がない。

(昔付き合っていた子に酔っ払って桜蔭中の入試問題を引っ張り出してきていかに凄いかを語って軽く引かれたくらい...笑)

 

知りたいが欲求のベースにある人はとにかく自分語りが苦手で、「あなたは何がやりたいの?」なんて質問をされると困ってしまいます。

もしこんな質問に困っている人は「あなたは何がやりたいの?」という質問を、「あなたの広めたいものは何?」と変換してみてください。

そして、その「広めたい」ものの何がそんなに広めたいのかを考えて見てください。

恐らくそれがあなたにとっての「自分語り」です。

少なくとも僕はこういうやり方にすることで、仕事の場や初対面の自己紹介の時に「自分のやりたいこと」なるものを答えることに悩むことは無くなりました。

 

 

アイキャッチは僕の大好きな漫画の1つ。

結界を人との境界、内にこもる気持ちとして読んだとき、たぶん「知りたい」欲求の人はハマると思います。

結界師(1) (少年サンデーコミックス)
 

 

 

社会人に必要な必要火急のインプットと不要不急のインプット

3月4月と、コロナの影響で仕事の時間帯が変わったり形態が変わったりと、なにかとバタバタしていました。

どうしても目の前の対応に迫られると、必要に迫られるインプットばかりになってしまいます。

僕も多分にもれず、この2ヶ月は仕事に必要なインプットをとにかくしまくっていました。

 

で、その反動というわけではないのですが、GW明けくらいから、僕は毎日一本映画を見るという習慣を続けています。

そんなことをしていて感じることが、実用性以外の観点から行うインプットの大切さです。

 

僕たちは社会に出ると、ついつい自分の本業に関するインプットに意識が行きがちです。

鉄鋼業の人ならば鉄鋼に関する知識を、広告会社の人ならばマーケティングに関する知識を、などなど。

もちろん専門分野の知識を身につけることは必須なので、これ自体が必要なことには間違いありません。

しかし一方で、「必要な知識だけ」に当たり続けても、中長期的な戦略としてはいまいちだと思っています。

 

僕は、その人がアイデアや企画を生み出す際のバックグラウンドになる経験や知識のことを、知識の層と書いて「知層」と呼んでいます。

ある程度までは必要な専門知識をかたっぱしから身につけるだけでどの分野でも通用する(というかそれがないと話にならない)わけですが、そこから先、何年か越しできちんとその分野で結果を出そうと思ったら、この知層が必要だというのが僕の持論だったりします。

そしてこの知層を育てるのには非常に時間がかかる。

 

第一線で活躍している人たちを見てみると、同業界であれば、彼らの行う仕事のスペックはそれほど大差がありません。

一流の営業マンなら誰もが一定のスピード、提案、コミュニケーション能力は持っていますし、プロの塾講師であれば誰もがやる気にさせる腕、練り込まれた授業力、教材の知識に、お客様を安心させるだけの所作みたいなものは当たり前に身につけています。

彼らにとってはそんな部分は持っていて当たり前なわけです。

で、全員がそういうスペックはほぼ変わらないはずなのに、僕たちにはご贔屓の営業マンができたり、お気に入りの先生が生まれたりします。

この違いはなぜ生まれるのか?

僕はその答えの一つが、知層であると思っています。

 

同じタネをうえたとしても、その土壌が異なれば成長速度や出来た果実の味に影響がでてきます。

それと同じように、一定のスペックを持っている人も、それを使うバックグラウンドとなる知識や経験の部分、つまりそれまでに積み上げてきた知層が異なるため、そこから生まれる魅力は多種多様になっていると思うのです。

 

必要に応じたインプットは、いわば肥料のようなものです。

それがなければそもそも発芽することはありません。

しかし、肥料だけでは初めは良くても、そこから先はどん詰まりになってしまいます。

そして、知層を作るのには数年スパンの積み上げがいる。

これは僕の経験と周りの観測範囲におけるお話にすぎませんが、新卒から3年くらいすると、僕たちは少しずつ戦い方を変えていかなければなりません。

(もちろん1年目からそういう責任ある職にある人もいるでしょう)

会社や先輩、チームの知層で戦っていたところに、自分の知層を混ぜていかなければならないわけです。

その時になって気がついて急いでインプットをしようとしても直ぐには成果は見えません。

恐らく純粋に仕事に関係するインプットがこれまで以上に増えているでしょうし、そもそも知層を作るのには時間がかかる。

だからこそ、そうした戦い方の変更を迫られると数年前からそのことを見越して、不要不急のインプットをしておくことが不可欠だと思うのです。

 

僕は社会に出てロクに仕事がなかった時、大学の図書館にこもって本を読み漁ったり、NPOで広報のお仕事をさせてもらったりという本業以外のインプットの場を意識的に用意していました。

(もちろん今もそういうことを常に意識しています)

そういう不要不急のインプットを意識し始めたのは大学4年生の頃だったのですが、案外これが今に生きているように思っています。

とにかく今はなにかをやろうとした時に形にできるスピードも速ければ、結果を求められる期間も速い時代です。

だからこそ、その戦いで勝つために僕たちはついついそこに最適化してしまうわけですが、実は僕たちはそんな短期の勝負をしているわけではありません。

数ヶ月先の結果を追いつつ、数年先の戦略の準備をしていく。

そういう「老獪さ」を持つことが、現代で上手に立ち回るには大切なんじゃないかと思うのです。

 

アイキャッチは余白の芸術

余白の芸術

余白の芸術

  • 作者:李 禹煥
  • 発売日: 2000/11/11
  • メディア: 単行本
 

 

 

「速い世界」における希少価値の作り方

とかく昨今は情報過多と言われ、僕たちの周りには情報が溢れています。

ゲームにマンガに映画に音楽、大学講義にヨガのレッスンまで、ウェブで検索するとあらゆるコンテンツにアクセスすることが可能になりました。

こうしたコンテンツの供給過多の状態は、僕たちのコンテンツに向き合うスタンスに大きく影響を与えました。

ビジネス書で「可処分時間の奪い合い」なんて言葉を見かけるくらいに、今はどのコンテンツにどれだけの時間をかけるかに頭を悩ます時代になっています。

 

情報過多の時代のコンテンツ

消費するコンテンツには溢れているけれど、それを楽しむ時間がない。

そんなコンテンツ過多な世界では、人々は長く楽しめるコンテンツよりも短い時間で楽しめるコンテンツを、集中力や深い予備知識が必要なコンテンツよりも気楽にながら見で楽しめるコンテンツを求めるようになります。

お笑いのネタ見せ番組にYouTube、コロコロと展開が変わるアイドルのポップソングなどは、コンテンツの短尺化や軽量化の典型例でしょう。

能力が低下したとか文化度が下がったとかではなく、情報過多の時代には構造上そういったコンテンツに流れていくのだと思います。

 

「速いコンテンツ」の競争原理

さて、僕たちが消費者として現代にコンテンツを楽しむのなら、短尺で見る側の労力がいらないコンテンツを大量消費さるという形でいいと思います。

ただし、作り手になるということになると話は変わってきます。

消費者に受け入れられやすい短尺でチープなコンテンツは、作り手サイドから見れば参入障壁が低く、レッドオーシャンになりなりやすい分野であると言えます。

例えば、YouTuberさんの辛い物を食べてみたとか、大食い系の動画はこの典型。

極論誰でも出来てしまいます。

 

誰でもできるコンテンツというのはすぐに人に真似されるため、そこで生き残ろうとすれば①企画内容を過激にするか②コンテンツの制作本数を増やすか③投稿スピードを上げるかの3通りしかありません。

そして現状「速さ」を求めるコンテンツの多くがこのいずれかの勝負をしているわけですが、どれも物理的に限界があるので、そこで勝負する人たちは少しずつ疲弊してきます。

こうした戦い方は、短期的な成功を収めるには有効だとしても、その先に中・長期的があるわけではないのです。

 

「速い世界」における作り手としての希少価値の作り方

作り手がこうした過激度合、物量、速さの戦いに陥らざるを得ない最大の理由は、作り手自身のインプット先がそうした「速いコンテンツ」しかないという所にあるように思います。

そもそもの情報源がそうしたコンテンツだから、そこから生まれるものは、「速いコンテンツ」の再生産になってしまうわけです。

作り手がこうした速さのスパイラルを抜け出す最良の方法は、別の畑からインプットをするというものです。

(たしか)手塚治虫さんはいい漫画の書き方を聞かれたときに「映画を見なさい」といい、立川談志さんは弟子に落語以外の芸事を学ばせたということが示すように、ある分野で独自のポジションを得ようとしたとき、別の分野からインプットすることが効果的なわけです。 

 

では「速い世界」における希少性の高いコンテンツとはなにか?

端的に言えば、これは長尺で受け手に深いコミットを求めるコンテンツと言えるでしょう。

例えば映画や小説、落語やクラシックetc...

情報過多の現代、こうしたコンテンツは内容の良し悪しとは別の「時間がかかる」という入り口の部分で、短尺で軽いコンテンツとの戦いで苦戦を強いられています。

裏を返せば、短尺で軽いコンテンツを求める大多数の消費者にとっては、見慣れないコンテンツということも出来るでしょう。

こうしたコンテンツを情報源にしたコンテンツはまだ少なく、実際にこの希少性ゆえに注目を集めることが少なくありません。

分かりやすい例だと(内容の良し悪しや好みは別として)中田敦彦さんやメンタリストのDaiGoさんのYouTubeなどはここに該当するでしょう。

 

既視感があるようにと、YouTubeの例をあげましたが、これは直近のコンテンツ作りだけに言えることではありません。

(むしろ、中長期的にアイデアを積み上げようと考えた時に有効な戦略だと思っています)

流行を捉えることは作り手としては必須です。

しかし、「流行だけ」とらえていては作り手ではない。

流行を捉えた上で希少性のあるインプットを積み上げ、希少性のあるコンテンツを流行の形に収める。

これから「作り手」として仕掛けていこうと思うのなら、こんな視点が大事なのではないだろうかと思っています。

僕はその仮説に基づいていろいろ準備をしていたりします。

 

f:id:kurumi10021002:20200515094356j:image

 

「思い」がない人間の、正しい思いの伝え方。

僕の本業は塾講師ですが、その傍で寄稿以来を頂いて記事を書いたり、イベントを作ったり、人を巻き込んで企画をたちあげたり、なんだかんだで結構いろいろなクリエイティブ系のことに関わる事があるので、自分の中でそういったアウトプットのチャンネルを用意しているわけです。

 

ちょうど今日の朝、『EXIT THROUGH THE GIFTSHOP』という映画を見ていました。

(「正確には昨日の深夜2時くらいに見はじめて寝落ちした続きを見た」ですが...笑)

この作品は、ストリートアートに魅力され、彼らの活動を追いかけるうちに自身もアーティストとして活動するようになった主人公のドキュメンタリーです。

僕が最も印象に残ったのは、主人公でアーティストのティエリの中心にはクリエイターとしての言語化できない衝動みたいなものが何もないという所でした(あくまで個人の見解です)

 

ティエリは、バンクシー(最近だとコロナで医者を持ち上げる一般人を皮肉った作品が話題になったアーティスト)に誘われてストリートアートを始めます。

f:id:kurumi10021002:20200514074848j:image

彼はその際に「世の中の全ては洗脳だ」という自分の作品に底通する価値観を明確にうちだすのですが、それはあくまで「アーティストとして活動するにあたって彼が見出したメッセージ」なのです。

僕はここが非常に面白いなと思いました。

『EXIT THROUGH THE GIFTSHOP』他のアーティストたちは、伝えずにはいられないという気持ちがあり、それをクリエイティブという形にし、結果アーティストとして活動をしています。

でもティエリは違う。

彼の衝動は、発表することになって考えだされた、いわば人工的な衝動なわけです。

その後マーケティングの功もあって、ティエリはアーティストとしての個展を成功させ、ストリートアーティストに名を連ねます。

しかし、その場面に挿入される、ティエリが関わってきた(バンクシー含む)アーティストたちの反応はどこか消極的。

僕にはそれが、彼のアーティストとしての「商業的な」成功を、アートとしての成功なのか?という疑問符に映りました。

 

別に僕はそれをもってティエリのようなマーケティング的な成功を収めるアートはけしからんみたいな芸術論を言いたいわけでもなければ、反対にバンクシーをはじめとするストリートアーティストのティエリをどこか受け入れない権威主義的な姿勢を批判したいわけではありません。

ただただ、そういう構図が興味深かったというお話。

 

僕は記事を書いたりイベントを立ち上げたりと、そこそこクリエイティブ系のお仕事のお話を頂き、実際に行うことが多いのですが、そういったものを作るたびに、自分にはクリエイティブの才能がないということを痛感しています。

作り出すものを因数分解してしまえば、どこまでいっても「憧れ」と「収集」と「アレンジ」でしかないのです。

僕が最もワクワクする(し、実際に得意だと思っている)のは、他者(人でも物でも)の良い部分を引き出すというお仕事です。

例えば、先方から「こんな思いを形にしたい」といわれたときにそれを最も伝わる形に仕上げて届けるだとか、凄いけど広まっていないコンテンツをどうしたらもっと認知してもらえるだろうと考えるような場合。

熱量をもっと大きくするだとか、熱を波及させるという部分は大好きなのですが、その「火種」は自分にはないわけです。

それを自覚しているからこそ、自分が中心となって何かをゼロから生み出す場合は、「憧れ」て「収集」してきたものの中から最適なものを組み合わせて「アレンジ」するという手法でしかものが作れません。

別にそれが嫌というわけですし、実際にそういう需要はある(だからこそ塾講師の僕なんかにそういう依頼がくる)と思うので満足していますが、「火種のなさ」はそういう仕事をするたびに感じます。

 

僕が『EXIT THROUGH THE GIFTSHOP』を見て、ティエリに共感したのはこういう部分です。

おそらく、ティエリも人の良さに気づくとか、それを引き出すみたいな部分が得意な人であって、「自分の根源的な衝動を伝えたい」というタイプではないと思うのです。

(この辺、『EXIT THROUGH THE GIFTSHOP』をみて僕の話に共感していただける人がいたらぜひお話をしてみたいです)

バンクシーは、ティエリのそういった「何もなさ」に気づいている。(もちろんそれをバカにしているわけではありませし、むしろ作品全体を通して伝わるのはそうした「何もない人」へのリスペクトです。)

ティエリは確かに根源的に「伝えたいメッセージ」は無いわけですが、そうした人々へのリスペクトやそれを追いかけて形にするという熱量はあります。

そして「熱量」そのものは、自己に根源的な所在を求めずとも価値を生み出すし人を惹きつける。

この映画を見てなんとなく、そんなことを感じました。

 

自分の根源的な欲求はないということを自覚しているしている人は少なくないように思います。

でもそれは、根源的に無気力という話ではなく、積極的に自分が主人公になろうとしないだけ。

こういうタイプの人って少なくないと思うのです。(少なくとも僕はそう)

「自分が主人公」になるのではなく、「自分のヒーローを引き立てる監督」になりたい。

それだってとても大きなエネルギーだと思うし、そういう人も大きな価値を生み出すと思っています。

ヒーローが求めらる昨今ですが、そのヒーローが人々に憧れるためには、その活躍を記録して伝える「語り手」が必要です。

だとしたら、「語り手」の側にだって、とても重要な使命があるように思うのです。

「日常に戻る」という「非日常」

毎日のニュースを見ていると、コロナの新規感染者数も徐々に減り、終息に向かう兆しが見え始めました。

(僕は今週もう一度感染者数が上がるんじゃないかと予想しているのですが、現時点下がっているのは事実なので、終息という方向で見ています)

コロナが猛威を奮って以降、僕たちは生活スタイルを大きく反応することを余儀なくされてきました。

そしてそろそろこの生活が定着してきつつある。

僕らみたいな個人事業主や飲食店経営者にとって、この一連の変化は大きな痛手となるところもありましたが、一方で僕たちに多くのプラスの変化ももたらしたように思います。

例えば人との接触を避けるためのテレワークなどはその典型です。

僕たちは早起きして満員電車に揺られて会社に出社し、上司や同僚の目に何時間も当てられながら作業をするということをしなくても仕事は回ることに気がつき、同時にそうした僕たちのそれまでの日常が、いかにストレスフルであったかということをはっきりと自覚しました。

知人と話していても、テレワークになって生活にゆとりが生まれたと話す人も少なくありません。

人混みや衆人環視の職場、残業や仕事終わりの飲みに、下手したら何時間もかかる通退勤の電車etc...

こういったものから解放されたのは、コロナによる正の側面ともいえるでしょう。

 

さて、コロナの終息の兆しが見えた今、僕たちは元の生活に戻ろうとしています。

日常が戻ってくれば自由な外出、ショッピング、飲み、旅行と、この数ヶ月は僕たちの生活からすっぽりと抜けていたそれまでのあたりまえが戻ってくることに期待を抑えきれない一方で、急に戻ってくるそれまで当たり前だった「生活の負荷」に僕たちはどれだけ耐えられるだろう?ということは不安に思っています。

先に書いた通り、僕たちはそれまで、早く起きて満員電車に揺られ、職場では常に人の目に触れ、時に残業をして、付き合いの飲みに繰り出し、また長時間の電車に揺られるという「あたりまえ」の生活をしてきました。

慣性の法則よろしく、それが社会に出たあの時の緊張の内に備わったあたりまえの習慣であるうちは、そこに大した負荷は感じません。

しかし、一旦それが「非日常」となってしまった時に、もう一度その負荷を受け入れるというのは、心身ともにかなりストレスを受ける行為なきがするのです。

仮にコロナが終息し、外出ができたとして、僕たちは元気一杯の状態というわけではなく、これまでの自粛で疲弊した状態です。

そんなへばった状態の所に、それまでの日常でかかっていた負荷を引き受けたら、メンタルを病む人も少なくないように思うのです。

 

6月は1年で唯一祝日の無い月です。

一気にそれまでの日常に戻るには中々ハードなタイミングと言えます。

こうしたタイミングで日常が戻ってくるとしたら、今から相応の準備をしておくことが必要でしょう。

僕は今週から、自分の担当の生徒さんには少しずつ学校があった時の生活に戻すように指示しているのですが、それはストレスを最小限にとどめ、日常へとスムーズに接続するには20日は必要だと思うから。

僕らはコロナの騒ぎでこの数ヶ月、場当たり的な対応を余儀なくされてきました。

だから正直、中長期的なスパンで物事に準備するというのが苦手になっています。

(というかそれどころでなかった)

しかし、それまでの日常はむしろ場当たり的な対応よりもある程度中長期的に物事を見て動くのが当たり前のものだったはずです。

そして、僕たちの体だったそもそもそうやってできている。

コロナの騒ぎが落ち着き、日常に戻れる可能性が見えてしたからこそ、その戻ってくる日常の負荷に押しつぶされないよう、僕たちはそろそろ準備をしていくことが大切なように思います。

 

アイキャッチ鷲田清一さんの「生きながらえる術」

生きながらえる術

生きながらえる術

  • 作者:鷲田 清一
  • 発売日: 2019/05/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

「ハマる」ということ。

コロナの影響で本業が変則的になり、このGWはまさかの12連休でした。

こんなに長い休みなんていつぶりだろうと思い振り返ってみたら、18歳の夏以来(笑)

僕は大学に入ってすぐに塾のバイトを始めたのですが、ありがたいことに2年目以降はコマ数も増え、ほぼ今みたいな生活をしていたので、10年ぶりの「大型連休」です。

理由はともかくせっかくできた連休なら楽しまなければ勿体ないということで、今までできなかったことを色々やろうということで、僕のGWが始まりました。

 

休みが始まり即効でギターのアンプや映写機、手品用品やDIY用品に撮影機材等、遊べそうなものを片っ端から買い込んで、とにかくやってみたいことができる環境を整えた4月末。

んで、僕の趣味にまみれたGWが始まりました。

 

休暇中の僕の生活はだいたいつぎの通り。

起床

①育てている野菜(約50種)の世話&撮影

iPadで映画やYouTubeを見ながらギターとピアノと手品の基礎練習&筋トレ

③塾のオンラインルームに投稿するコンテンツ&記事作成

④読書

お昼寝&お昼ご飯

⑤教室orカフェで過去問分析&教材作成

⑥オンラインルームのコメント返信&自習室の対応(たまに)

⑦酒in

⑧オンライン交流(打ち合わせor友だちとオンライン飲みorオンラインゲーム)

⑨映画や漫画を見ながら寝落ち

この自粛をかなり積極的に楽しんでいた自信があります(笑)

 

そんなわけで、久しぶりにやりたいことMAXで過ごしていたわけですが、改めて趣味の大切さ、というか「ハマる」という事の大切さに気づいた気がしました。

 

「ハマる」ことの強さ

コロナ禍で自分の時間が増えて、改めて実感したのが没頭することの強さでした。

どうしても日々の生活だと、価値を生み出すことや役割期待に応えるという意識が常に先にあって、とことん時間をかけるとか、自分のこだわりと向き合うみたいな時間は少なくなってしまいます。

社会は人との関係性の中が前提なので、人の為にとか、信頼を積み上げるというのは当然重要なのですが、一方でそちらに偏りすぎて、目的ありきの学びや手段としての情報の吸収だけになってしまえば、インプットは単調でアウトプットも無味乾燥なものになってしまいます。

既に十分すぎる個性的な経験をインプットをしてきた40代、50代の人たちであればそれでいいのかもしれませんが、僕たちみたいな若者世代が彼ら年上の世代が基盤としている余白を得ぬままそうしたやり方を真似してしまえば、おそらく薄っぺらな個性しか持ち得ないように思うのです。

 

もちろん人の役に立つという視点は大事ですが、同時に「『らしさ』のある個性」を生み出すには、「他者」という視点から解放された、自分の価値観や感性に向き合う時間が不可欠だと思うのです。

そうした「自分の価値観や感性」に向き合うのに適したものが趣味であり、もう一歩踏み込むなら「ハマる」という経験です。

 

「ハマる」ことで得られる観察眼とエネルギー

何かにハマることで、僕たちはさまざまな物を得ることができます。

僕が考えるその代表的なものが観察眼とエネルギーです。

例えば、ピアノにハマったとして、ある曲を聞いた時に初めは何となくいいなだった感想が、曲の展開に注目し、メロディに気づき、コードの構成にワクワクして、緻密な和音や倍音に驚きし、作者の意図に触れて感動するというように、ハマればハマるほど、そのコンテンツの細部に気づけるようになります。

こうした「確かにそこにあるのに誰もが見逃している部分」に気づくことができる観察眼を養うことができるのが、ハマることの大きな効果です。

ハマることで気づいた観察眼は、他のものに転用することが可能です。

なぜなら、一度細部に宿る意図に気づけた人は、「他のものにも当然同等の作り込みがなされている」ということに想像が及ぶからです。

 

また、こういった部分にまで気づけるようになろうと思ったら、ある程度の情報量と集中力が必要です。

こうした情報収集の時間や集中力は、側からみれば「エネルギーがある人」という評価に繋がるように思います。

何かにハマることで、情報収集のための執着心や集中力が身につく、つまりエネルギー量の高い人になるということにつながると思うのです。

 

価値創出と没頭という2本柱を持つ

他者ありきの価値ばかりを追い求めても薄っぺらな個性しか発せないよつになると言いましたが、もちろん何かに没頭するというだけでもいけません。

それではただのわけわからない人になってしまいます(笑)

大切なのは他者ありきの価値創出とどこまでと自分の内に潜り込む没頭を両輪にバランスを保つことです。

そうすることで、他者に価値を生み出しつつ、なおかつ自分らしさをそこに乗っけられるような気がするのです。

 

この休みを通して、僕はここのところ仕事にかまけて「没頭する」ということを忘れていたなということに気がつきました。

と同時に、だからこそ誰にでもできるありきたりなアウトプットになりがちだだったなと思うことも。

 

忙しくなり他者との関係ありきの生活になるとついつい忘れてしまう、「きっかけはどこまでも自分の内部にある」という視点。

他者から投げられた期待が棚だとしたら、僕たちは自分の内部にそれを育て、花を咲かせる土壌を持たねばなりません。

僕はその土壌を、知識の層と書いて「知層」と呼んでいるのですが、良質は知層を保つためにはきちんとした手入れが不可欠です。

その知層を得るのに不可欠なのがハマるという事だと思うのです。

そんな、かつての自分は当たり前に意識していたかを再認識させられたGWでした。

それだけでも僕にとって、この長期休暇は良かったなあと、そんな風に思ったりしています。

f:id:kurumi10021002:20200511132330j:image

アフターコロナの処世術〜未知の出来事を前に求められるSF的思考〜

100日前を振り返る

振り返ってみると僕たちはこの2ヶ月間、激動の毎日を過ごしてきました。

学校が休みになり、自粛が当たり前になり、仕事はテレワークになり、「飲み」というコミュニケーションはなくなり、マスクが当たり前となり、多くのことをオンラインですませるようになりました。

ネットでは『100日後に死ぬワニ』というコンテンツが話題でしたが、100日前を思い出せと言われたらもう全く思い浮かばないほどに、コロナは僕たちの生活様式に影響を与えました。

ポジティブに捉えれば、ICTにより緩やかに進むはずであった変化が、一気に加速したとも言えます。

そんな、大きくかつ急激な変化にさらされている僕たちは、否が応でもその変化についていかなければなりません。

 

「技術ができること」と「技術の先にできること」

「技術でできることを語ることができる人は多いけれど、技術の先に広がる世界を語れる人は意外と少ない」

評論家の岡田斗司夫さんが、10年近く前 前にこんなことを言っていました。

岡田斗司夫さんはこれをSF的思考と呼んでいました。

 

SF作品に描かれているのは、ある技術が発展した場合の世界観です。

例えば、地球外生命体とコンタクトを取ることができたらどういうことが起こるだろうか?(『神の目の小さな塵』)、人類が月で暮らせる技術を得たらどういうことが起こるだろう?(『月は無慈悲な夜の女王』)など、SF作品には〈if〉の先の世界が極めて緻密に描かれています。

岡田斗司夫さんは、「技術で何ができるのか?」を予測するよりも、「その技術が当たり前のものとして広がると人々にどのような変化が起きるだろう?」ということを想像することが大切で、その「世界観の想像力」こそ、SF的思考だど言っているわけです。

 

VUCAの時代とSFの世界

この数年で「これからはVUCAの時代だ」なんてことを頻繁に耳にするようになりました。

※VUCAとはVolatility(変動)、Uncertainty(不確実)、Complexity(複雑)、Ambiguity(曖昧)の頭文字を取ったもので、これからの時代を生きる上で私たちが前提にしなければならない事象を指しています。

僕は、そんなVUCAの時代において最も重要になってくるのが、「SF的思考」だと思うのです。

例えば、「コロナが一旦収束しても、私たちはコロナと付き合っていくことになるだろう」とか「アフターコロナの世界ではオンラインとの共存がスタンダードになるだろう」という予測をよく聞きますが、これらはどこまでいっても技術面のお話です。

SF的思考とは、それによって生じる私たちの物理的・内面的変化まで踏み込んで、その先の世界観を高い解像度をもって「想像」する力です。

「コロナと共存し、マスクを一年中つけることになったら、僕たちのこれまでの日常はどのように変化するだろう?」

「親密な接触が大きなリスクとなるのが周知の世界で、僕たちはどのようなコミュニケーションを取るだろう?」

「仕事にテレワークという選択肢を知ってしまった僕たちは、どのようにライフスタイルを構築するだろう?」

このように、「その技術が広がった先の世界」に思いを巡らせるのがSF的思考です。

 

僕たち人間の営みを構成するのは、どこまでいってもテクノロジーではなく人間です。

だとしたら、(人間不在の)テクノロジーの変化をいくら熱心に語っても意味がありません。

そのテクノロジーが人間の生活様式にどのような変化を与えるのか?

これこそが僕たちが把握したいことだと思うのです。

そういった「技術の先に広がる世界」を想像する助けになるものがSF的思考です。

ある意味「テクノロジーでできる事を」というのは極論です。

「ITやAIが仕事を全部代替してくれてお金も稼いでくれるから仕事をしなくていい」なんて言われても、恐らくそうした仕事をし続けるでしょう。

なぜなら、僕たちは仕事に対価以外にコミュニケーションや自分の生きる価値を求めているからです。

 

大きな変化の真っ只中にいるからこそ、テクノロジーの変化を追うのではなく、SF的な思考ができることが大事になってくるのではないかと思います。

 

アイキャッチは僕の大好きなSF小説カート・ヴォネガット・ジュニアの『タイタンの妖女