面白さの3階層〜サークルの「おもろいヤツ」が社会に出るとクソおもんない理由〜
「あの人は面白い」
周囲からこんな評価を得ている人が多くいます。
大抵そのことは自覚していて、仲間内で集まるとその人が話を落とし、ドカンと笑いが起きる。
その人がいるだけで明らかに空気が良くなる。
間違えなくそういう「面白さ」があって、それは周囲も自分自身も自覚している。
そんな人が就職活動になったり、あるいは社会に出た途端にそれまでの「面白い人」という評価をされなくなってしまう。
特にその人が面白い!お近づきになりたい!あるいは長く取引相手として仲良くさせてもらいたい!と思う人から「面白い」と言ってもらえない。
んな経験をしたことがある人、あるいは周囲にこういう状況の人がいませんか?
最近立て続けにこのタイプの人と出会って、話を聞いていていくつか僕の中で仮説ができたので、今回はそのお話をしたいと思います。
あなたの「面白い」はどの階層?「サークルノリ」が通用しない理由
ひとくちに「面白い」と言っても致しているものがまるで違うことがあります。
ステージが変わった途端に「面白い」という評価を得られなくなったと感じる人は、この面白さの階層がズレているのではないかというのが僕の仮説。
「面白さ」について、僕は次の3階層に分けて考えたいます。
1階層 話(話し方)が面白い
2階層 物の見方・考え方が面白い
3階層 生き様が面白い
上の3階層でいうと、大学のサークルや地元のツレといった、いわゆる身内ノリの盛り上がりを担保するのは1階層の話(話し方)が面白い人です。
このタイプは身近な出来事を面白おかしく編集して話したり、身内の文脈でウケる小ボケ、ちょっとしたイジリみたいなものが非常に上手く、仲間で盛り上がるときに重宝されます。
いわば最高の潤滑油。
こうした面白さは身内でいるときに非常に大きな効果を発揮します。
しかし、身内で大きな効果を発揮する反面、文脈を共有しない人とのコミュニケーションにおいては1階層の面白さは十分に効果を発揮しません。
初対面や年齢や境遇が離れた人とのコミュニケーションにおいては共有する文脈を探るところ、あるいは共有しているわずかな文脈の中で盛り上がる必要があるからです。
このときに必要になる面白さが第2階層の物の見方・考え方の面白さや第3階層の生き様の面白さなのです。
初対面の場を盛り上げる「見方・考え方」の面白さ
初対面や共有するバックグラウンドが少ない人とでも話が盛り上がるためには、どんな話題に関しても「自分なりの面白がり方」や「らしさが乗っかる見解」が必要になります。
ここで役に立つのが、自分なりの物の見方や考え方です。
少し特殊な(おかしいという意味ではありません)、自分なりの考え方や感じ方を持っていると、初めて聞いたことにも「それは僕はこう思う」というように、話を返して一緒に盛り上がることができます。
このレイヤーで面白いと思って貰えるのが第2階層の「物の見方・考え方が面白い」人たちです。
就職活動で無双状態の学生さんや居酒屋で場を盛り上げている人、会社で結果を出している優秀な人などは大体このタイプ。
身内ノリので盛り上げるのと、初対面でも盛り上げられるのとでは、かなり文脈が違うわけです。
外部の人も巻き込んでしまう「生き様型」の面白さ
第1階層と第2階層の違いで、社会に出た途端に面白いという評価を得られなくなる現象についての説明はできましたが、中にはもう1階層深い部分で「面白い!」と思われる人がいます。
それが第3階層の「生き様が面白い」と思われている人です。
この階層にいるのは、起業家の人や突飛な行動で注目を集めるタイプの人たち。
YouTuberでいうと、アマゾンの民族に潜入ロケをしていたナスDさんとかです(笑)
あそこまでぶっ飛んでいる必要はないのですが、その人の行動の一挙手一投足が面白い、そんなタイプの人がここに属します。
第3階層の生き様としての面白さを持つ人は、目の前を盛り上げるばかりでなく外部から人を巻き込みます。
だからしばしばカリスマという評価を受けがち。
この面白さを持っていると、知らず知らずのうちに人が集まってきて、第2階層とはまた違う面白さを提供できるようになります。
面白さをアップグレードする
というわけで、歳を重ねるにつれ「面白い」という評価をしてもらえなくなったと悩む人は、決して自分のセンスや能力が枯れてきたというわけではありません。
ただただ、それまでの「面白い」というレイヤーでは通用しなくなっただけ。
その証拠に久しぶりに大学や地元の友達と会った時は今も相変わらず面白いと思われるでしょうし、同窓会ではヒーローでしょう。
(だからこそ、「昔は良かった」とか「やっぱり気心知れた仲間がだいじ」とか思うわけです)
このタイプの悩みを持つ人に必要なのは、才能の再発見ではなく面白さのアップグレードです。
そもそも第1階層で面白いと評価されてた人であれば、絶対に第2階層や第3階層の面白さも同程度にあることができます。
話術としての面白さから、見方・考え方の面白さ、そして生き様としとの面白さへとバージョンアップしていく。
それを意識しておくことが再び面白い人評価を得る、自分がお近づきになりたい凄い人に面白いと思ってもらうための効果的な方法であるように思います。
アイキャッチは生き様の面白さを体現している談志さんの本
細長く続けるという戦い方
僕の飲み友達で同業でもある友人が半年くらい前に始めた「世界征服クッキング」という企画。
(ツイッターでハッシュタグ「#世界征服クッキング」で調べてみてください)
個人的にこの企画やハッシュタグがむちゃくちゃ気に入っています。
というのも、この企画自体は誰でも思いつくし、誰にでもできるありふれたものだけれど、続けるだけで大きな独自性を帯びた価値になると思うからです。
物量を武器にするみうらじゅん的戦い方
僕が大好きな人のひとりに、みうらじゅんさんがいます。
彼はゆるキャラという考えの生みの親。
みうらじゅんさんはそれ以外に、もらって絶妙に嬉しくない地方のお土産を「いやげもの」と名付けてみたり、外を歩いていてふと目にする看板や広告の組み合わせで般若心経を完成させる「アウトドア般若心経」なるものを作ったりしています。
僕はこの、みうらじゅんさんがよくやる「単体では価値は弱いけれど集めると大きな武器になる」という戦い方が大好きだったりします。
時間を差別化要因にするという考え方
昔、2ちゃんねるの解説者である西村博之さんが、自身の掲示板の成功要因を聞かれた時、「他が辞めていくなかで自分だけがやめなかったから」というお話をしていました。
僕は差別化という観点からこの視点がすごく重要だなあと思っています。
仮にスタート地点では数多のライバルがいたとしても、他がやめていく中で自分だけが続けていれば、やがて自分ひとりの勝ちの場になる。
ただ続けるということが差別化要因になることもあるわけです。
細長い戦い方
僕は何かを始める時、みうらじゅんさん的な物量で差別化を図るやり方と、西村博之さん的なただ続けることで差別化を図るやり方を組み合わせるというのをむちゃくちゃ意識しています。
ひとつひとつはつまらないものだけれど集まれば大きな価値になり得るものを、時間をかけてじっくりと続ける。
僕はこの戦略を「細長い戦い方」と呼んでいます。
競合のSWAT分析や市場調査により最適解を見つければ、短期的な勝ちを獲得することは容易です。
でも、そういう戦略により勝ち取ったポジションは、同じく戦略によって容易に奪われると思うのです。
それに対して、物量がなければどうしようもならないみうらじゅんさん的な価値の作り方や、時間をかけなければどうにもならない西村博之さん的な価値の作り方は、結果が生まれるには膨大なコストと時間がかかりますが、一度そのポジションを取ってしまえば早々に逆転されることはありません。
極端な話、今さら日本中のゆるキャラを集めたとしても、「日本中のマスコットキャラを集めてゆるキャラとしてカテゴライズした」というブランドはずっとみうらじゅんさんのものです。
あるいは西村博之さん的な時間を味方につける戦い方であれば、奈良の大仏と同じ規模の建造物を作って勝負したって、あちらは「千年以上残っている」という価値があり、それは今建てた建造物では絶対に巻き返すことができないわけです。
長期的勝ちを獲得するための細長い戦略
仕事をしている人であれば、もちろん目の前の目標に対して価値提供をすることが必須だと思います。
しかし、短期的な価値に視野を奪われると、先にあげたような「短期的にはマイナスしかないけれど、長期的に大きな武器になる」チャンスに盲目的になってしまうように思うのです。
長期的な勝ちを得たいのであれば、目の前の目標を達成する戦略とともに、長期的な勝ちを取りに行く「細長い戦略」も必要だよなあと。
冒頭で取り上げた世界征服クッキングは、僕の中で細長い戦略の典型です。
多分、100カ国超えたあたりから意外な広がりを見せる。
そこに行くには時間も量もかかります。
でも、だからこそおもろいコンテンツになり得るきがするのです。
仕事で結果を出さねばとおもうしとほど思う人ほどついつい忘れがちなこの思考。
行き詰まっているという人がいたら、ぜひこの「細長い戦略」を意識してみてください。
わかるようで絶妙に分からない世界のことわざ
逃げるは恥だが役に立つ
最近、世界のことわざにはまっています。
その土地ならではの意味合いがあって面白いなあと。
僕の大好きなマンガのひとつである、「逃げるは恥だが役に立つ」はもともとハンガリーのことわざ。
このあたりは確かになあと納得する部分も多いことわざなのですが、中にはそれは何が言いたいんだ?というものがあり、とても面白いのです。
ことわざの中にはその土地の人が生活の中で見出した生活の知恵や生き抜くコツ、暮らしを通して得られた教訓みたいなものが元になっているものが多いと思うのですが、なるほど!と思うものも数多く存在する一方で中には文化が違うから全く理解できないものがあります。
それがむちゃくちゃ面白いわけです。
なるほど!と思わず納得することわざ
というわけで、僕のお気に入りのことわざをいくつか並べてみたいと思います。
「鳥が鳴くと人々は意味を語り出す」
これはアフリカのアンゴラに住むオヴィンブンド人のことわざだそう。
ある事象を見たときに、僕たちはついつい自分の解釈をさも真実であるかのように語り方です。
とくにSNSの世界ではそういう光景に出会いがち。
このことわざは、そんな僕たちをうまく言い表しているような気がして、僕はとても好きだったりします。
「約束は雲、実行は雨。」
こちらはアラビア語にあることわざ。
口で言うのは簡単だけど、実行するのは難しいよねという意味だそうです。
なんとなくこの言葉の意味は分かりますが、アラビア語を用いる地域の人にとっての雨の希少さを考えると、その言葉の重みが感じられてとても深みのある言葉だなあと思います。
「早起きしても夜明けは来ない」
こちらはアルゼンチンのもの。
日本のことわざで言えば「果報は寝て待て」に近いと思うのですが、アルゼンチンではそれを朝日で表現するというのが印象的でした。
「早起きは三文の得」ということわざに見られるように、日本ではいいことというイメージの強い「早起き」。
それが南米のアルゼンチンでは急いだって仕方がないという意味で用いられているところに文化の違いが反映されているように思います。
どういう意味!?よく分からない世界のことわざ
なるほど!と思うことわざが数多く存在する一方で、それどういうこと?と思ってしまうような面白いことわざも多く存在します。
こちらも僕のお気に入りをいくつか紹介します。
「氏はシンハラ、行いはイギリス」
こちらはスリランカのことわざです。
新しいものばかりを取り入れて古いものを軽んじるという、温故知新のエピソードに出てくる「思ひて学ばざれば則ち殆し」的な意味だと思います。
まあ分かるっちゃ分かるのですが、僕たちには馴染みがなさすぎて、まず頭には「?」が浮かんできます。
「誰かにかぼちゃをあげる」
スペインのことわざで「告白を断る」みたいな意味なのだそうですが、こちらに関しては僕たちには意味がわかりません。
なんでもかつてのカタルーニャ地方では男性が女性の家に結婚の許可を貰いに行ったときに、両親からタバコの火を貰えれば結婚が叶い、かぼちゃを出されたら拒否された合図だったとのこと(諸説あるのでこれが起源かはわかりません)
理由を知れば納得できますが、背景が違いすぎていきなり使われたら混乱してしまいそうです。
「シロアリはその気になっても石を噛み砕けない」
こちらはナイジェリアのことわざ。
もちろん、なんとなく意味は分かりそうですが、初めて聴くとシロアリ!?石!?みたいなインパクトで肝心の伝えたい内容まで入って来ないような気がします。
ことわざで文化を相対化する
いろいろなことわざを見て、その成り立ちを追いかけると、その土地ごとの文化が分かるのと同時に、自分たちの文化の特異性に思いを馳せることもできる気になります。
たぶん僕がことわざにはまっているのはこの部分が最大の理由。
ついつい僕たちは自分の常識が当然と思いがちですが、それらは地域の特色や暮らしという前提があって初めて成立するものです。
そんなの考えてみれば当たり前のことも、ついつい普通に生活していると忘れてしまいます。
世界のことわざを見ているとそんな当たり前を再認識できる気がして、そこが面白いなあと思うのです。
みなさんもよかったらことわざを調べて見てください(笑)
アイキャッチは逃げ恥
好きを仕事にしているのにつまらない人と面白い人
YouTubeが普及するにしたがって使われるようになった「好きなことをしてお金を稼ぐ」という言葉。
僕はこの考え方自体は嫌いではないのですが、最近のYouTuberやこの言葉を言って独立しようとする人を見ていると、それってちがうんじゃない?という違和感を覚えることがあります。
YouTubeでも独立・起業でもいいのですが、好きなことをして好きなことでご飯を食べられている人は、「仕事にするために好きを追求した」のではなく、「好きなことを追求したら仕事になっていた」だと思うのです。
自然の流れに逆らわない
僕は論理的整合性が取れているかということと同時に、「川上から川下への流れを意識する」ということを非常に大事にしています。
いくら論理的に正しくてもそれが自然の流れに逆らっているのであればどこかで無理が生じるからです。
それは自然状態を捻じ曲げないものであるのか?という視点から事象を分析しています。
「好きを仕事にする」に関しても同じです。
昔のYouTuberや独立した人を見ていると、本当に好きなことをしていて、それがたまたまお金になったから独立したというパターンがほとんどなのです。
ヒカキンさんや釣りよかさんやひろしさんなんかがそう。
こうした人たちの次には「成功されるために好きを紹介する層」が登場します。
ヒカルさんやラファエルさんあたりがここに分類されるでしょう。
彼らは楽しい生活をアピールすることで視聴者の注目を集めていきました。
あるいは、独立して楽しく暮らそうという堀江さんやイケダハヤトさんもここに属するでしょう。
「好きを仕事に」というキャッチコピーが広がったのもちょうどこのころです。
「好きを仕事に」のキャッチコピーのもとYouTuberや独立起業をしようと、その生き方を目指すようになった人が10年代前半には増えましたが、振り返ってみれば上手くいった人はほんの一握りです。
彼らが上手くいかなかった理由が、先ほど述べた自然の流れに逆らっているからだというのが僕の意見です。
基本的に好きなことで食べていける人たちは、「好きだからそれを続けていたらお金になった」という状況を踏んでいます。
ラファエルさんやイケダハヤトさんみたいなグループもいますが、彼らは「好きなことをアピールしたからお金になった」のではなく、そうしたアピールを商品にする人がいなかったために先行者利益で需要を独占できただけなのです。
だから、前者に憧れて後者の後追いをしても上手くいかないわけです。
第3世代が好きをお金にする方法
好きなことをしていたらお金になった層を第1世代、成功するために好きをアピールした世代を第2世代としたとき、プレイヤーが爆発的に増えた状況でYouTubeや起業独立に挑戦しようとする人を第3世代と呼ぶとして、彼らに成功する方法は第1とも第2とも違う方法であるというのが僕の持論です。
第3世代の勝ち方は、改めて好きを追求した結果注目が集まるという自然の流れに立ち戻ることだと思います。
とはいえこれだけ情報にアクセスしやすくなった社会ですので、普通の趣味を普通の規模でやったとしても、だれの興味も惹きつけないでしょう。
ここで重要になるのが余ったお金を持っていることです。
以前、キングコングの西野さんが「今はサラリーマンYouTuberがアツい」と言っていたのですが本当にその通りで、生活に苦労していない人が余ったお金で行う趣味をコンテンツ化していくのが、結果的に注目を集めるように思います。
資金の心配はないし、売れることが目的でもないからこそ、徹底的に突き詰めることができる。
そして、そうして生まれたどこにも流れていないマニアックな知見だからこそ注目が集まる。
「成功するために成功を目指さない」
逆説的ですがこうした戦略が第3世代には効果的であるように思います。
仕事で結果を出すために仕事以外を頑張るという戦い方
これはYouTuberに限った話ではありません。
企業にいて長期的に成功をしようとしている人にも言えることだと思うのです。
僕たちは結果を残すためについつい「仕事の勉強」に注力しがちですが、結果を残すためには実は仕事以外の知見が役に立ったりします。
なぜなら「仕事以外の知見」は仕事で頑張る第2世代の人が持っていない武器だからです。
プライベートを全て仕事に捧げるというやり方は短期的な結果を出すことには効果的です。
でもそのやり方は自身の体力や人生という観点からも、プレイヤーが出続けるという観点からも長続きしません。
僕の先の言葉で言うのなら自然の流れに逆らっているわけです。
そうではなくて、プライベートで全く違う分野の知見を集めておき、長期的にそのコミュニティにない視座を提供できるようになる。
これからの社会で勝ち筋を見出すのなら、こういった人材の方が有利であるように僕は思います。
話し下手克服クエスト〜太鼓持ちの達人になろう〜
「どうやったら話し下手が直せますか?」
何年か前に知人の教室で研修をさせて貰う機会がありました。
その研修終わりに質問を受け付ける場面があったのですが、その時に出たのが冒頭の質問です。
僕がその時に行った研修は、前半がスライドを使った座学で後半は参加者の質問を受けてその場で話題を広げて答えていくという乱取りみたいな形のもの。
その方いわく質問されてから答えるまでの瞬発力を見て、上記の質問をしてくれたということでした。
僕は決して説明やお話が上手いわけではありませんが、仕事柄人前で話す機会は多かったりします。
そうした場数という意味で少しだけ「話さこと」に関しては慣れているかもしれません。
ただ、それは先天的な能力ではなくて、仕事の必要に迫られて身につけたものだったりします。
(むしろ僕はもともと話がものすごく下手くそです)
塾講師という仕事をしていくにあたって、かなり勉強して無理矢理コミュニケーションの仕方を変えました。
という意味で、「話が上手い風に見える方法」なら自分の中である程度の公式があったりします。
太鼓持ちの達人を目指す
話し上手と聞くと、話術だとか話の構成だとか面白さみたいな部分に意識が向かいがちですが、実は話を上手くなりたいと思った場合、まず重要なことは「聞き上手」になることだったりします。
会話はあくまで相手との関係性の中で展開されるものなので、まずは相手との接点を探ろうという姿勢が不可欠なのです。
(学生時代の僕にはこの視点が絶望的にかけていました 笑)
聞き上手になるという話をする時、僕はよく「太鼓持ちの達人」になるという言葉を使います。
太鼓持ちと聞くとおべっかを言って相手の顔色を伺うようなイメージがあるかもしれませんが、ここでいう「太鼓持ち」とは、変に媚びへつらうのではなく、キチンと相手の話題を引き出してあげる姿勢のことです。
いわば超攻撃的太鼓持ち(笑)
そんな超攻撃的太鼓持ちの達人を目指すにあたって、僕は次の3点を意識することが重要です。
①自分と相手の会話の分量を把握する
②相手と自分の接点を広げる
③トス型のラリーを心がける
これを常に意識していると、相手が自然と話してくれる環境を作ることができます。
3点を意識して心地よい会話環境を整備する
①の自分と相手の会話の分量を把握するというのは、文字通り「今の自分と相手の会話の比率がどの程度か?」を常に意識しておくということです。
人は自分が話したい生き物なので、放っておくと、ついつい自分ばかりが話してしまいがちです。
しかし、これをしてしまうと相手に退屈さを抱かせてしまいます。
こうならなることを防ぐ手段が①なのです。
お互いの会話量を把握する癖をつけると、常に「今自分は喋りすぎてるな」とか、「相手がむっちゃ喋っているな」ということが分かるようになります。
そうなれば自分語りを自覚できるようになります。
後は基本は3:7で相手の方がたくさん話せるように心がけ、どんなに自分が喋っても比率が5:5を超えないようにするという決まりを作っておけば、相手が話しやすい環境の基礎が整います。
これができたら次は②の相手と自分の接点を広げる作業です。
基本的に人は共通の話題である方が話しやすくなります。
だから、人と話す際には相手との接点を広げることが大切です。
ここで重要になるのは「お互いの共通の話題を探そうとする」のではないという部分です。
僕たちは接点を探ろうと聞くと、ついついお互いの共通の話題を見つけるみたいに思いがちですが、あくまで聞き手としてのスキルを磨くという点でいけば、こちらから相手に近づくことが必要です。
具体的には、相手の話題の中で自分も知っている部分を相手に共有して下さい。
例えば昭和歌謡の話をされたとしたら、自分の知っている(できれば好きな)曲や歌手を提示するみたいな感じです。
あくまでこちらから相手に近づくことで共通項を増やしていきます。
そして、共通項ができたらそこの話で盛り上がるか、「教えて下さい」という姿勢で話を横展開していく。
こうすることで話が格段に盛り上がります。
このようにして相手と同じコートに立つのが②の意識です。
ここまで出来たら次は③です。
会話をラリーに例えるとしたら、①と②が出来たらただ打ち返してラリーをするのではなく、トスを上げるイメージで返すことが大事になってきます。
僕たちはついつい相手から来た会話内容に対し、同じだけの圧で返そうとしてしまいますが、それをしてしまうと、相手が必ずしも想定していた方向に話が進まなくなってしまいます。
そうすると、会話がとまってしまい、ちぐはぐな空気になる。
そうならないためにもあえてフワッとした返答を心がけることが大切なのです。
具体的には、相手の話に鋭く返すのではなく、頷いたり相槌を打ったり、納得共感したりするということです。
ここで、相手の話に持論を被せたり、相手より高度な具体例を出したり、相手を否定するような反論をぶつけたりしたら、会話を引き出すということはできなくなってしまいます。
あくまで聞き上手になりたいと思うのであれば、そういったコミュニケーションは避け、相手が主役になれるようなトス型の返答を意識して下さい。
話し上手は攻撃的太鼓持ちから
こうした聞き上手の姿勢が完璧に身についていると、相手から得られる情報が非常に多くなります。
そうなると、今度は自分が話す場合にも、相手も楽しめる話題選びや話の運びができるようになる。
相手の話をしっかり聞くというのは単なるごますりではなくて、その後の自分の会話のヒット率を上げるための戦略なのです。
超攻撃的太鼓持ちになると、それまでとは見違えるほどに相手の話を引き出すことができるようになります。
そして、それだけでも相手に「話しやすい人」という印象を持ってもらうことができるでしょう。
その上で話術みたいなものを身につけると、あの人は話が上手いという印象になるわけです。
というわけで、機会があればこのエントリの後編として、僕が学生時代に塾講師として話し方を磨こうと参考にした話し方の方もまとめていきたいと思います。
1匹目のどじょうを狙う人と2匹目のどじょうを狙う人
最近YouTuberを研究しています。
それまでも人気YouTuberやビジネス系、実験系、サバイバル系はウォッチしていたのですが、ここにきて釣り、雑談、カップルチャンネルまでジャンル問わずに見漁っています(笑)
大手の全体の流れとして、①好きなことをしていたらバズった期、②一攫千金を夢見たベンチャー初期、③差別化を意識したマーケティング期、④知名度を引っさげてYouTubeに挑むタレント期、⑤編集やディレクターが参入する裏方期みたいなのがあるなあと、そちらも面白がってはいるのですが、それ以上に僕が面白いなあと思うのが登録者数千〜数万の、これから伸びるであろうチャンネル群です。
1匹目のどじょうを狙う人と2匹目のどじょうを狙う人との違い
僕が色々なYouTuberを見ていて一番に思ったことが、この1匹目のどじょうを狙う戦略と2匹目のどじょうを狙う戦略の違いでした。
1匹目のどじょうを狙う人とは、まだ誰もやったことのないジャンルを開拓する人たちのことです。
そして2匹目のどじょうを狙う人というのはすでにできたジャンルを後追いしようとする人たちのこと。
別にどちらがいいというわけではないのですが、多くを見比べると、それぞれ勝つための戦い方はまるで違うなあというのが見えてきて、とても面白かったです。
端的に両者の違いを述べるのであれば、1匹目のどじょうを狙う人はコンテンツ、2匹目のどじょうを狙う人はキャラが大事といった感じです。
1匹目のどじょうを狙う人の戦略
前者の、未開拓のフィールドを進む人に関しては完全にコンテンツ勝負な印象でした。
別に多少編集が雑でも、説明が下手でも、何なら顔出しなどしていなくても、そのジャンルの始祖というだけで、人は集まっています。
(というか、そこしかなかったから人が集まり、まだ続けているから大抵のパターンは全てそこにあるという感じ)
ここで大切なのは、1匹のどじょうを狙う場合、本人のキャラクターはあまり関係がないというところです。
未開拓のジャンルを検索する人は、その「情報」を求めているため、それを扱う人の個性云々はあまり関係しません。
逆に自分を見て欲しい、俺はこんなオモロイこともできまっせという感じで他の趣味や話術みたいなものを押している番組は尻窄みになっている印象さえあります。
新たなジャンルを開拓する場合はコンテンツであるという意識と、自分が押し出したいかもしれないキャラを押し付けないという心構えが重要なのかなと思いました。
2匹目のどじょうを狙う人の戦略
反対に2匹目のどじょうを狙うタイプの番組で上手くいっているものを見ていて感じるのがキャラクターの重要性です。
すでにジャンルが確立した分野においては、コンテンツ力で勝負するのは悪手です(①圧倒的な資金力、②参入障壁のある情報を得る伝手がある、③先行者を超える手数を出し続けられる環境がある場合を除く)。
もちろん上にあげた①〜③がある場合に関しては勝ち筋は見えるでしょうが、それ以外の場合に先行者を質で超えることは容易ではありません。
それくらいに「先行者である」ということと、すでにストックがあるということは強いわけです。
そんなジャンルにおいても視聴回数が多い番組というのも数多く存在していました。
それは、コンテンツではなくキャラで勝負をしている番組です。
コンテンツ的には全く真新しさはないのだけれど、どこまでもコンビ仲がいいとか、オネエ系の人で和むとか、ダメな奴だけど憎めないとかそんな感じ。
ここで重要なのは、今回言っているキャラというのは、量産系アイドルの人たちがよくやりがちな「自分で後付けしたキャラクター」ではないということです。
生来自分(たち)に備わっていて馴染み出ているような個性の部分を言っています。
こうした滲み出るキャラクターをベースにコンテンツを使う番組は、着々と登録者を増やしている印象でした。
コンテンツ優位とキャラ優位という考え方
僕の入り口がYouTubeだったということで今回はYouTubeの話としましたが、これは他のメディアでも通用することであるように思います(もっといったら仕事でも言えることなのかなあと...)
自分だけのジャンルを開拓するか、すでにあるジャンルにキャラで挑む。
少し前にキングコングの西野さんが、「これからはキャラ経済だ」というお話をしていました。
それはいったんのジャンルが出尽くした今のフィールドで戦うならキャラクターは重要だよねというお話かと思います。
新たなジャンルを開拓するか、キャラでポジションをとるか。
その切り口はどちらでもいいのですが、そのポジションを明確に自覚していると、結果に結びつきやすいような気がします。
アイキャッチは僕の20代前半の愛読書(笑)
ブランドを引き受ける人とブランドを消費する人
「あの人は東大卒のクセに仕事ができない」「いい企業に勤めているのに社会性はない」
人の学歴や肩書きで見るなんて失礼だと思う一方、確かにそんな風に感じることもないわけじゃないよなあと思ってしまうこうした表現。
(特に本人がそのブランドに誇りを持っている場合は...)
本日は学歴や会社名といったブランドについて考えてみたいと思います。
ブランドとは何か?
例えばGUCCIときけば高級そうと思ったり、無印ときけばスタイリッシュと思ったり。
こういったように、名前を聞くとある特定のイメージを相手に連想させる効果を持つというのが、ブランドの特徴の1つです。
「東大生」と聞いて頭が良さそう、優秀そうというイメージを抱かせたり、大手企業の名前を聞いて安定していそう、高収入というイメージを抱かせたりというのもブランドということができます。
ある特定の名前を聞くと、それに付随して一定の決まったイメージが浮かぶのがブランドであるとして、そのイメージはどうやって作られているのでしょう?
端的に言えば、それはそのブランド名が今まで積み上げてきた実績の上に成り立った評価であるということができます。
世界中のセレブに信頼され親しまれてきたからGUCCIやエルメスと聞くと高級というイメージが浮かぶし、社会に出て活躍する優秀な人材を数多く排出してきたから東大と聞くと優秀、頭がいいというイメージが浮かぶわけです。
もちろん、企業のマーケティング戦略で意図的に作られたブランドというのもありますが、それだって「市場にそう認知してほしい」という意図はあったとして、認知するのは市場側なわけで、根っこの部分にはその評価に耐えうる方がなければいけませんし、そもそもブランドを構築するためのマーケティング活躍そのものが努力であるとも言えます。
ブランドとはただそこにあるものではなく、それまでの実績が堆積してできた評価を分かりやすく表したものなのです。
流動的なブランドの価値
さて、ブランドの価値がそれまでの評価の積み上げであるとしたら、そのブランドを持つ人の質が低下すれば、長期的にそのブランドイメージも低下することになります。(もちろんその逆もそう)
例えばルイ・ヴィトンなんかはどうでしょう。
言わずもがなヴィトンは高級ブランドの代名詞なわけですが、ゼロ年代くらいから高校生がちょっと背伸びして持ってみたり、ヤンキーが好んで持ち歩いたりする機会が増えてきました(すみません、完全に僕の主観です)。
そうなると、ヴィトンのイメージは背伸びした初心な高校生や大学生、あるいは田舎のヤンキーがいきって持つものというイメージになるわけです。
もちろん、マクロなデータを見たわけではないのでヴィトンの例は全てが主観の域を出ないのですが、少なくとも僕の中ではこうしたイメージの変化がありました。
逆にユニクロのように、それまでは安かろう悪かろうの商品を売るお店みたいなイメージだったところから、シンプルで機能的な商品を売るお店というイメージに変えるという、悪いところから良いところへとイメージが転換する例も多々あります。
このようにブランドのイメージとは「今」ブランドに関わる人の印象を積み上げることで次の世代に伝えるイメージが変わるものなわけです。
ブランドを消費する人とブランドを引き受ける人
僕はブランドのことを、上記に述べたようなものであると思っているので、自分の学歴や肩書きをまず言いたがる人を見たとき、残念な人だなと思うことがあります。
それは、肩書きを鼻にかける姿がムカつくとかいうことではなくて、その人が学歴なり会社名なりというブランドを消費するばかりで自身の振る舞い自体がブランドの価値を作り上げているという自覚のないことに対する失望みたいなものです。
例えばある人が「俺は○○大学だ」とか「○○に勤めている」といったとして、確かにその瞬間は凄いとなるかもしれません。
しかし、その人がどうしようもなく能力の低い人であった場合、周囲には同時に「あっ、あそこはその程度なのだ」という負のブランドイメージの構築に加担していることにもなるわけです。
僕は肩書きを用いる人に関して、①ブランドを使うと同時に自分もそのブランドの価値構築の一躍を担っているという自覚を持つ「ブランドを引き受ける人」と、②自分が手に入れたブランドなのだからと考えて自分の担う価値構築の役割に無自覚な「ブランドを消費する人」という2つのタイプに分類しています。
東大生のクセに仕事ができないとか、一流企業勤のクセに社会性がないみたいな周囲からの評価は、気づかぬうちに②のブランドを消費する人としての振る舞いになってしまっているかもしれないわけです。
(もちろん、周囲からの嫉妬からそういう不当な評価を受けている場合もあるでしょう)
ブランドは襷であるという自覚
ブランドとはリレー形式で次の人に渡す襷である。
これがブランドを使う際に僕たちが持っておかなければいけない意識であるというのが僕の持論です。
別に肩書きを振りかざすのが悪いわけではないですし、場合によっては非常に上手く機能することもあるので、持っている人はどんどん使うべきだと思います。
ただ、「自分の振る舞いがそのブランド価値に見合うかどうか?」という意識は忘れてはいけません。
消費者ではなく襷を次に繋げる働きを担うものであるという自覚。
これがブランドを使う際に僕たちが持ち合わせなければならない品性だと思うのです。