佐村河内さんのゴーストライター問題と、食品誤表示問題。
どちらも長引いてますよね。
虚偽記載や嘘の経歴なんてけしからん!
そんなものに騙される消費者がおろかだ。
だいたいこの二つに意見は分かれる気がします。
そのどちらにも、共感できるところがあるのですが、同時にどちらにも思うところがちらほら、、、
僕なりの誤表示問題とゴーストライター問題に対する総括をまとめてみたいと思います。
これらの問題で僕が1番思うのは、人々が何に対して怒っているのかという所が取り間違えられているのではないかってことです。
殆どの意見が、嘘をついて人々にコンテンツや料理を提供していた事が出発点になっている気がします。
嘘をついて売っていた。
嘘も見抜けない方が悪い。
これっていろんなものがごっちゃになって語られている。
現象を拾っているだけで、何故こんなにも非難が多いのか?何が人々を失望させたのか?っていう問いに対する答えにはなっていない様に思います。
もう一段掘り下げて考える必要があると思うのです。
そのためには、一度事実と感情を分離して問題を捉える必要がある。
こんな視点から、これらの問題を考えてみたいと思います。
まずは「事実」について。
誤表示(虚偽記載)にせよゴーストライターにせよ、問題になる前と後で何も変わっていない事について考えます。
問題が取り上げられる前と後で、事実として何も変わっていないことは、作品や料理の質です。
別に食品偽造がバレる前もあとも、その料理の味と質は何も変わっていない。。。
佐村河内さんの楽曲も、ゴースト発覚の前と後で、そのクオリティは全く変わってないんですよね。。。
材料に何使っていようが、うまいものは美味いし、誰が描いた作品だろうが、いい音楽はいいんですよね。
これは問題が起こる前と後で全く変わらない「事実」です。
作品や料理の質は何もかわっていない。
変わったのはそれに対する我々の「評価」だけなんですよね。
だから目先の名前じゃなくって味や作品の質を消費者が判断しろっていうんじゃ話が薄すぎる。
僕たちは何に対してお金を払っているんだろうって所を考えてみる必要があるんじゃないかって思います。
僕たちは普段何気なく商品を購入するときに、その品物の対価としてお金を払っているように思いがちです。
でも実はそうじゃない場合が多い。
僕たちは、じつはその商品の持つストーリーに対してお金を払っているんですよね。
特に娯楽品に関しては。。。
多分料理で言うならば、この料理が美味しいって所ではなく、この料理にはシェフのこんなこだわりがあるとか、こういう思いで作られたって部分に価値を見出している。
音楽もただ単にいい曲ではなくて、こんなに凄い曲をどんな境遇で作ったのかって部分にお金を払う。
物そのものの品質ではなく、それにまつわるストーリーに僕たちはお金を払っている。
だからこそ、そのストーリーに嘘偽りがあるとわかると、僕たちは怒りを感じるんだと思います。
味がわからない奴が文句言ってるとか、曲の良さを感じろって言ってる人はおそらく、消費者は商品の質の対価としてお金を払っているって思ってる。
じつはそうじゃないんですよね。
だからこそ、自分の審美眼がないことを棚にあげるなっていう消費者を叩く意見には反対です。
「いいものだと思ったのに嘘だった」と「自分はその商品のストーリーに価値を見出してお金を支払ったのに、それが偽りだった」では、全然意味が違ってきます。
前者は商品そのものの価値は変わっていないので、払った料金の対価は頂いていることになります。
それに対して後者の場合、ストーリーそのものにお金を払っているので、それが偽りだったとなると、払ったお金に見合った対価を得られていない事になる。
だからこそ買った人たちは「怒る」し、「返金しろ」って騒ぐようになるんですよね。
それを愚かな消費者って片付けるのは横暴すぎます。
物のそのものの価値ではなく、それを売る人・その商品そのものの「評価」が価値になる時代。
それが僕たちの生活する経済社会だと思うんです。
少しずつ、価値尺度か「質」から「評価」にシフトしてきている。
あらゆる商品にあるれている現在において、ある意味必然の事だと思います。
僕らがXperiaではなくiPhoneを選んでしまうのは、使いやすさだけじゃなく、そこにジョブズのこだわり(=ストーリー)を感じるから。
食品誤表示問題や佐村河内さんのゴーストライター問題を考える際には、物の価値とは別に、ストーリーという軸を設定する事が必要な気がします。。
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