新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



魔女の作画や歌詞の伏線などの表面的な尖りで隠れたまどかマギカの演出上の凄さ

3話の「マミる」と呼ばれるシーンや、10話の主題歌が最後に流れて伏線回収するシーンに注目が集まりがちな魔法少女まどかマギカという作品。
もちろんそれ自体に大きな驚きはあるのですが、それ以上に僕は3話なり10話なりを物語における展開のトリガーとして使った所が面白いなと思っています。

3話でマミさんが食われるシーンとタッチの交通事故でかずやが亡くなるシーンの演出上の効果

まどかマギカについて話を聞くと、必ず出てくるシーンが3話のマミさんが死んでしまうシーン。
主人公たちより2つ年上の巴マミは、学校の先輩、そして魔法少女の先輩として登場します。
主人公のまどかと友達のさやかはマミさんを見て、魔法少女に憧れるようになる。
一方、今まで1人で孤独に戦ってきたマミさんも、これからさ一緒に戦ってくれる仲間ができると喜びます。
そんな気持ちを実感していた矢先、マミさんは戦っていた魔女に頭を食べられてしまう。

僕はこのシーンを見たときに、タッチで甲子園を目指していたかずやが交通事故で亡くなるシーンを思い出しました。
タッチでは、かずやの死がきっかけで主人公のたつやが野球部に入りストーリーが大きく展開していきます。
明らかに主役級のかずやが死んでしまう驚きと、そこからの展開で始めてタッチを見たとき、ぐっと引き込まれたのを覚えています。
まどマギにおけるマミさんの死には、これと同じ効果があるように思いました。

主役級のキャラクターをストーリーから離脱させることで物語の展開を加速させるという構成自体はよくあることです。
しかし、それを魔女っ子ものでやってしまう所、そしてトリガーとなる主役級の死を主人公たちが憧れる先輩でやってのける辺りに、まどかマギカの「エグさ」のような物を感じました。


魔女っ子ものというジャンルで絶対にやってはいけないストーリー展開

憧れの先輩が目の前で、しかも主人公たちに魔法少女になって戦いたいという想いが芽生えた時に「食べられる」という形で死ぬ先のシーン。
展開のきっかけとしての役割はもちろんのこと、それ以上に魔女っ子ものというジャンルにとって衝撃的なシーンであったように思います。

どんな作品ジャンルでも、絶対にやってはいけないストーリー展開の様なものがあります。
それは、感情的な意味ではなく、ストーリーが成り立たなくなるという意味で。
例えば推理ものやスポ根物に超能力はダメですし、サザエさんのような日常ものに時間の流れは入れられないといった具合です。
魔女っ子ものや戦隊ものにとってのタブーの一つは「仲間の死」です。
何人か揃って成り立つ勧善懲悪のストーリーにおいて話の途中で仲間が欠けるというのは致命的。
見ている側は、全員が揃う決め絵の度に死んだキャラを思い出してしまうため、絶対にできない展開だと思っていました。
しかしまどかマギカではそれを話を加速させる演出として用いています。

もうひとつ魔女っ子ものにとってのタブーに「少女の成長」があります。
魔女っ子ジャンルは、「無垢な少女が悪い敵を倒す」という大前提の上に成り立っている物語です。
そこでは少女の物理的な成長や内面的な成長を描き得ない。
もし成長させてしまえば、見ている人たちに「いつか少女でなくなる」という事が無意識に伝わります。
つまり、魔女っ子ものでは少女が成長した先に意識を向けさせないことが重要になってくるのです。
しかしまどかマギカでは、ここも正面から崩しています。


敵として描かれる「魔女」とは大人になって汚れる事の抽象化

まどかマギカの中で戦うべき敵として出てくる「魔女」は、魔法少女の心が濁った果てに堕ちてしまう存在として説明されています。
ピュアな少女が魔法少女として戦い、心が濁ると魔女になる。
僕は見ていたときにちょうど、「大人になる」ことのメタファーであるように感じました。

魔法少女まどかマギカの設定の一つに、願いを一つ叶える代わりに魔法少女として戦うというものがあるのですが、これは本当にえげつない設定だなあと思いました。
作品世界ではそれを「少女の祈り」と綺麗な言葉で描かれていますが、実際には本人の「欲望」です。
世界のために戦うきっかけが、自分の欲望になっている。
無垢な存在が少女であり、その対極にある汚れた存在が魔女であるとしたら、まどかマギカでは魔法少女になるきっかけの時点で「汚れ」が内在しています。
つまり、その瞬間からどうあがいても汚れた存在に行き着かざるを得ない。
そんな残酷さがあるように感じました。

まどかマギカの世界観で印象的なのは、大人が徹底して出てこない点です。
作品の中で出てくる大人はまどかの両親と先生だけ。
明らかに登場人物としての大人の数が少なくされています。
無垢な魔法少女が汚れると魔女とは、汚れを知って大人になることと重なります。
それが敵として描かれている以上、よほど重要な役割を果たす大人以外は登場させられません。
逆にまどかマギカの世界観の中で登場する大人は、それだけ重要な役割を持っているということでもあると思うのです。

まどかだけが親からの愛情を受け取って育った子供として描かれていることの意味

まどか以外の他の魔法少女になる子たちの共通点の一つは、家族の繋がりがないことだと思います。
出てくる魔法少女の女の子が全員、様々な理由で家族との繋がりと離れた所で描かれています。
そしてそのような女の子が魔法少女になることと引きかえにする願いは、どれも「利己的」なもの。
マミは死にかけてそこから助かりたいというもの。
さやかは自分の好きな男の子を助けたい。
佐倉杏子は父親の宗教に人を集めたい。
そしてほむらの願いは自分を助けてくれたまどかを死なせたくない(ずっと一緒にいたい)。
マミさんの願い以外相手のために見えますが、その動機は全て「自分のために」という所からきています。
その意味で全員の願いが利己的なものであると言える。
対して、まどかの願いは「全ての魔法少女が救われて欲しい」というものでした。
「利他的」な願いをしたまどかだけが、家族の愛情の下に育っています。
設定上あまり出せないはずの大人である両親を描いたのは、それだけまどかだけが愛情に囲まれていたということを重視したかったからではないかと思います。

10話の伏線回収とダブル主人公の演出

まどかマギカは物語の後半から映画版にかけて、まどかとほむらというダブル主人公のような構成で物語が展開します。
そのきっかけが、第10話のほむらの過去改装編です。
この回ではオープニングが最後に流され、実は歌詞の内容がほむらの過去を歌ったものであったということが明かされます。
別にこれ自体は、ただ伏線を回収しただけなので、凄いとは思いませんでした。
僕はオープニングの歌詞が繋がっているということよりも、その演出をトリガーとしてダブル主人公のストーリーに仕上げた所が10話の特異さであると思っています。
ダブル主人公の作品には、からくりサーカスとマギがありますが、どちらも物語の前半で主人公を分けて、後半で繋がるという構成をとります。
ダブル主人公にする場合、比較的早い段階でそれを行い、後半でそれを拾うという形にするのが一般的だと思います。
まどかマギカでは、物語の後半、それもクライマックスに向かう直前で差し込みます。
物語終盤に、ダブル主人公という世界観をひっくり返すような設定を入れ、しかもそれを違和感なく見ている側が受け入れられたのは、オープニングを最後に流すという演出や、歌詞が全て伏線になるという、構成以上に「表面的には」トリッキーな演出でコーティングされていたからです。
そこに10話の中で個人的には1番凄いと思いました。



斬新な演出や、意味深な名前や言い回し、そして何より目を引く魔女の作画など、尖った部分で溢れていてそちらに気を取られてしまいがちですが、まどかマギカの最も異質な所は、そうした表面的なレトリックに隠して行われている実験的な演出や構成にあるように思います。
この前久しぶりに見て、改めて凄い作品だなと思いました。

アイキャッチは詩の特集雑誌ユリイカまどマギ特集

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