新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



クリティカルシンキングは無駄の中から生み出すもの

25℃。
デジタルな気温の上では明らかに今いる空間の方が涼しいのだけれど、生身の感覚が、外の空気を、より涼しいと感じることがあります。
「涼しい」よりは「心地よい」があっているのかもしれません。
空調が作る「涼しさ」は、記号としての涼しさしか携えていないのに比べて、自然の涼しさは、僕らが思うよりもはるか多くの、余計な情報が加わります。
鈴虫の羽音、終電のベル、濡れた空気のにおい。
吹き付ける風の感覚。

先日、一緒にいた後輩が、ツクツクボウシの泣き声を受けて、夏の終わりを感じていたのを思い出しました。
僕にはセミの羽音としての認識しかないその声に、後輩は夏の終わりを感じていたのです。


談志の芝浜、志ん朝のお見立て、米朝師匠の地獄八景。
いずれも僕の大好きな落語なのですが、僕がこうした作品に惹かれるのは、そこに確かなリアリティがあるからです。
ひとりの噺家がそこで語っているに過ぎないのに、それを聞いた僕の頭中には、確かに芝の浜があり、男を悩ませる墓が並び、歴代の名人の姿が浮かびます。

最近興味を持ったテーマの一つに、作品の情報量というのがあります。
情報量とは、ある作品に秘められた作り手の意図や描写の妙のこと。
これらの再現率は、受け手である僕達自身の許容量に左右されます。
再現率とは、作者が作品に込めた意図を汲み取るパーセンテージのこと。
許容量とはすなわち、作品の細部にめぐらせた、作者の演出を汲む能力のこと。

ダンテを知り、ゲーテに触れ、モネを好む人と、そうでない人では、「風立ちぬ」から受けるインパクトは、全く異なるように思います。
もちろん、宮崎駿監督は、誰にでも分かる映画を前提にこの作品を仕上げているように思うので、作品を楽しむのに、古典の知識を持ち出すことが野暮なことくらい承知しています。
それでも、カストロフに感じる違和感や、最後の煉獄を思しき場面にいる次郎を、より深く味わおうとするのには、宮崎駿さんに負けないくらいの教養が不可欠だと思うのです。

僕達は、自分の理解の範囲内でしか、あらゆる事象を理解することはできません。
どれほど強大な情報量を受けても、固体としての処理能力以上の理解はできないと言うことです。
僕自身が、自分の理解を上げる唯一の方法は、自身の持つ余白を増やすことだと思っています。
それは、短期的にみて、一見役に立ちそうもない、くだらない知識の断片かもしれません。
しかしながら、そうした断片をしつこく集めることで、他者を理解するための、強固な知識の層、即ち「知層」を養うことに繋がると思うのです。
その「知層」を厚くする唯一の手段が、身近な大人が背中を見せることだと思います。
デジタルであらわすことのできる、ゼロ・サムゲームの思考も確かにいいけれど、実際にそこにコントラストとして存在する、生の情報を尊重する、少なくとも許容する姿勢を持たなければならないように思います。