新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



ワンパンマンと黒子のバスケに共通する〜手段が目的化することへの問題提起〜

僕はポストゼロ年代のマンガには、大きく3つの流れがあると感じています。
ひとつが、未知の危険から守られた「壁」を表現したマンガ群。
進撃の巨人を筆頭に、ハンターハンターやトリコ、あとはアニメではありますがサイコパスなどがここに含まれます。
このカテゴリに含まれるマンガには、守られた世界の外側に広がる危険や恐怖から隔離された人々の安心や無知と、外の世界を知りたいという人々の不安と興味が描かれています。
昔そのことについてまとめたエントリがあるのでこちらもよろしくお願いします。
二つ目が受験戦争をテーマにしたような作品群。
先日のエントリ(食檄のソーマと暗殺教室に感じる受験教育への問題提起 - 新・薄口コラム)で、食檄のソーマと暗殺教室に感じる受験戦争への問題提起という話題を取り上げたのですが、まさにその手の作品です。
広義でいけば、仲間同士がある日突然殺しあうことになるバトルロワイヤルなんかもここに含まれます。
そして僕の考える最後のカテゴリが、強くなるという手段が目的化したことに対する問題提起系の作品群です。
本来であれば何かを手に入れるために強くなる、何かを実現するために力が欲しいというように、希望を叶えるための手段として身につけたはずの力が、いつの間にかその力をつけること自体が目的になってしまっている。
そういう現状に「それってどうなの?」と問題提起をする。
そうした作品がここに含まれます。
代表的な作品が黒子のバスケとワンパンマンです。
黒子のバスケは、主人公が中学時代にチームメイトとして一緒に戦っていて、それぞれ違う高校に進んだ仲間と戦って勝っていくことを軸に話が進みます。
主人公が中学時代に所属していたバスケ部のモットーが勝つことでした。
他のチームメイトは、元からあった圧倒的な才能も重なって、勝つことと強さを徹底的に求めます。
主人公はそんなかつての仲間たちと意見が対立して、強さではない答えを証明するために戦っていきます。
黒子のバスケには、大きな流れとして、強さを追い求めるかつてのチームメイトに、何のための強さなのかの答えを大切にする主人公が打ち勝っていくという展開が存在しています。
つまり、手段が目的化した「強さを求める」という行為に対する、作者の問題提起がここにはあると思うのです。

さらに顕著なのはワンパンマンです。
こちらの主人公サイタマは、第一話からすでに、どんな強敵でも一撃で倒してしまえる力を持っています。
そんな主人公が悩むのは強さを求めるというようなことではなく、日常生活の些細なこと。
地球を滅ぼしてしまうような悪者も一撃で倒せるような力を持つサイタマは、いつもスーパーの特番というような、カツカツの日常生活に悩んでいます。
一方で、そんな圧倒的な強さを持つサイタマの周りに集まるヒーローたちは、強さを求め、サイタマの強さに興味を持っています。
サイタマの周囲に集まるものは、サイタマのような強さを求めるのに対して、それを備えた当人は、強さばかり手に入れてどうなるのだと悩んでいます。
ここにも黒子のバスケとは違った形で、目的化した「強さ」に対する問題提起がされていると思うのです。

「強さの果てに何を望む」とはワンピースに出てくる鷹の目のミホークの言葉ですが、これらのマンガには端的にこの問いかけが潜んでいるように思います。
それはそのまま、マネーゲームなり、出世競争なりと、本来ならば幸福を手に入れるための手段であったはずのものごとがいつの間にかそれ自体が目的になってしまった社会に疲弊した人たちの気持ちが無意識のうちに乗っかっていると思うのです。
狂ったように求めている物は、本来何のために追いかけていたのか?
それを問いかけるような作品も、ポストゼロ年代の特徴だといえます。

自分たちの世界は実は壁に守られているのだということを暗示するマンガ群、加熱した受験戦争に対する問題提起、そして本来ならば何かを達成するための手段であったものが気がつくと目的化していることに対する訴えかけが、僕の感じる2000年後半に顕著になってきたマンガに現れる新たな動きだと思います。
共通しているのは、現実の「無理」を受け止めていること。
90年以降ほころびつつあって、それでも僕たちが目を逸らしてきた様々な事象に、いい加減目をむけなければならない。
こうしたカテゴリに属する作品をみていると強く思い出します。
僕たちにそういった社会の空気感の変化を伝えてくれるのが、上に挙げた作品の特徴であるように思います。

アイキャッチはワンパンマンの第一巻

ワンパンマン 01 (ジャンプコミックス)

ワンパンマン 01 (ジャンプコミックス)