新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



高校生を悩ます「である」ことと「する」事はおばちゃんのダイエットに例えると分かり易い⑥「業績本位という意味」

前節で述べられた、「である道徳」に基づいた社会では、自分の意見を言い合ったり、何かを決める際に契約書を交わしたりといった手続きは要りません。
母親に夕ご飯を作ってもらうのにイチイチ申請書を出す必要も無ければ、お小遣いを受け取るときに、わざわざ受け取り証明書なんて発行しませんよね?(笑)
このように、「である道徳」で動く社会では、今の僕たちの社会では当たり前になっている社会上の手続きが要らないという点で、コミュニケーションがすばやく取れていたといえます。
しかし、それができたのは単に社会の規模が小さかったから。
生活上のほとんどのことが、身近な人たちとのつながりの中で完結していたため、面倒な契約書を交わすというようなことをしないで済んだのです。
社会が発展して、人々の係わり合いの範囲が広くなった社会ではこのような意思疎通のやり方だけではうまく回らなくなってきます。
そこで出てきたのが「する」ことの論理です。
この節では、「する」ことの論理がまとめられています。
ここでまとめられている「する」論理は、以下の2点にまとめることができます。
その人の価値はどんな成果を上げたかで測られるということと、人との関わり方が部分的であるということです。
「である」論理で動く社会では、その人の身分や性質がどういったもの「である」かが決定的に重要でした。
しかし、社会が発展して関わる人が増えてくると、そういった身分だけではうまく社会が成り立たなくなります。
社会が発達して、人々が複雑に関わりあうようになると、そこでどういう成果を上げているのか、どういう実績を残しているのかということが重要になってきました。
ちょっと極端な例ですが、よく友達と遊びにいくカラオケ屋さんを想像してください。
町にカラオケ店が一つしかなく、また、他の町に遊びに行くという手段も無ければ、僕たちは歌いたいとき、その町に一つしかないカラオケ店に行きます。
なぜならそこがその町にとってのカラオケ店「である」から。
ところが、町が発達してシダックスジャンカラなどの多くの大規模カラオケ店が出典してきたとします。
そうすると、僕たちはみんなで歌いたいと思ったとき、どのカラオケ店に行くかという選択肢が生まれます。
こうなると、僕たちは歌いたいとき、どのカラオケ店が一番いいか、町にあるカラオケ店から一番サービスのいいものを選ぶようになるのです。
やや強引かもしれませんが、これが「する」論理で回る社会ということ。
選択肢が増えると、僕たちはどれを選ぶかを、そのもののスペックで判断するようになります。
「する」論理で動く社会の一つ目の特徴は、この「能力」で判断されるという点です。
これを筆者は「業績本意」と呼んでいます。
また、日常生活において係わる数が増えてくると、それぞれの係わり合いは部分的なものになります。
小さなコミュニティではご近所さんに子供のお守りをしてもらい、困ったときは助けてもらい、野菜のお裾分けをしてもらうなど、全てがご近所さんで解決していたのが、社会が複雑になると、勉強は学校に、野菜を買いたいのならばスーパーに、仕事を探すのならば就活サイトにと言った具合に、目的に応じていろいろなものに関わるようになります。
当然そこでの関わり方は部分的なものになる。
会社は仕事という目的の限りで一緒にいるのであって、基本的にそこに属する人たちはそれ以上の関わりを求めません。
「する」論理の社会では、特定の目的に基づいて関係を構築するのです。

こうやって書くと、「いやいや会社のつながりってそんな冷たいものとちゃうやん!」っていう突っ込みが入るかも知れません。
確かに日本ではそんなに明確に目的のみで結びついているとは感じづらいかもしれません。
筆者はこうした日本の社会のことを「もし日本で必ずしもこういう関係が成立してないとするならば、――仕事以外の娯楽や家庭の交際にまで会社の「間柄」がつきまとうとするならば――職能関係がそれだけ「身分」的になっているわけだと言えましょう。」とまとめています。

とうぜん「である」社会から「する」社会への以降は、ある日から100%切り替わるものではありません。

分野によってその進度に差が出てきます。
この分野によってテンポの違う「である」社会から「する」社会への移行と日本におけるその特徴が、次節以降でまとめられます。

 

 
 
アイキャッチは「21世紀の資本」

 

 

 

21世紀の資本

21世紀の資本