新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



高校生を悩ます「である」ことと「する」事はおばちゃんのダイエットに例えると分かり易い⑧「『する』価値と『である』価値との倒錯』

丸山真男さんの「である」ことと「する」ことにおいて最も厄介なのはこの節です。

冒頭の「この矛盾」をしっかりと頭で理解した上で、戦前と戦後の違いを抑え、そして実例を見ていかなければなりません。
この節は前提として要求される知識が多すぎるのです。
というわけでその辺を説明しながら、ざっくりどんな話かをイメージしてもらえるよう心がけてまとめていきたいと思います。
 
まず「この矛盾」を改めて理解しておきましょう。
前節で言われていたことは、「本当なら『する』価値観で動いているはずの会社などの組織に、なぜか『である』価値観が入りこんでるよね」って話でした。
これが、丸山さんの指摘する矛盾です。
この節では、より具体的な例を挙げて矛盾を説明しています。
この具体例に入る前に、頭の部分に触れておきたいと思います。
「この矛盾は、戦前の日本では、周知のように『臣民の道』という行動様式への帰一によって、かろうじて弥縫されていたわけです。」って当たり前のように書かれてますが、全然「周知のように」じゃない!(笑)
この部分をフワッとした理解で流しているためにその後の理解が曖昧になってしまうという人は多いのではないでしょうか。
この一文には、「する」論理で成り立つ組織の中に「である」論理が入って複雑になっていたのは戦前も戦後も同じはずなのに、それでも戦前はなんとかなった理由が書かれています。
丸山さんは、戦前の日本人が今ほど混乱せずにこの矛盾の中で生きてくることができた理由を、「臣民の道」という行動規範にあると言っています。
臣民の道とは、(これまたざっくりな説明ですが)家族とか個人とかの関係よりもっと深い所で天皇との繋がりを意識しましょうというお話です。
(臣民の道の説明が目的のエントリではないので、この解釈に対する批判は勘弁願います。)
つまり、戦前の日本では時と場によって「である」価値観と「する」価値観を使い分ける必要があったけれど、日本人全体が臣民の道で示されるような価値観を共有していた。
「である」価値観と「する」価値観の間で混乱したとしても、根っこの部分で全員が共有している考え方を持っていたというわけです。
だから、前節で挙げられた矛盾の中でも、なんとか生きて行くことができた。
 
ところが、戦後になると臣民の道のような日本人の誰もが共有している価値観がなくなります。
その結果、いよいよ僕たちは「である」価値観と「する」価値観の間で混乱するようになってしまいました。
これが、前半で述べられていること。
ここから丸山さんが言うところの「日本が文明開化以来抱えてきた問題性が爆発的に各所にあらわになった」例がまとめられます。
 
筆者は<「『する』こと」の価値に基づく不断の検証が最も必要なところでは、それが著しく欠けているのに、他方さほど切実な必要のない面、あるいは世界的に「する」価値のとめどない侵入が反省されようとしているような部面てまは、かえって効用と能率原理が驚くべき速度と規模で進展している>ことが問題であると述べています。
これを簡単に言い換えるなら、「今の日本は政治みたいな結果が重視される分野ではなぜか『である』ことが中心で動いていて、効率やコストパフォーマンスみたいな価値観で考えてはいけない教育や福祉みたいな分野ではどんどん『する』価値観が広がってるよね」ということです。
本当は、政治や会社組織こそ、効率やコストパフォーマンスを追求するべきなのに、そこでは政治家の「せんせい」であることや、社長や部長であることが重視になってしまっている。
反対に効率が悪いからという理由で切り捨ててはいけないはずの分野では、どんどん効率化が進んでいる。
これこそが(日本に限らず)現代の問題なのではないかと筆者は指摘しているわけです。
 
以降節の後半ではその例として、大都市の消費文化と大学の博士論文が挙げられています。
一つ目の例は旅館がホテルに変わっていくのはまだ分かるが、休日にレジャーをしなければならないという価値観ってどうなの?というお話です。
ここで旅館とホテルの違いを掘り下げると筆者の言いたい事がぼやけるのであまり書きたくないのですが、何故かここをテストで聞く学校が多いので、少しだけ触れておきます。
旅館は基本的に一つの部屋があり、夕食の時にはその部屋でご飯を食べ、寝る時にはその部屋に布団を敷きます。
つまり、一つの部屋が食卓から寝室まで、様々な役割を果たすのです。
これはまさに「である」価値観で作られた生活スペース。
それに対して、ご飯はレストラン、寝る時はベッドというように、機能別にわけられているのがホテルです。
これが「する」価値観で作られた居住空間。
旅館よりもホテルが普及するのは、その利便性の面からまだわかるが、最近の人々の休日の過ごし方の慌ただしさはいかがなものか?
旅館とホテルの例はこう言いたいための前フリなので、あまり深く考えないで下さい(笑)
 
本筋の休日の例に戻りたいと思います。
本来休日とは、仕事や打ち合わせといった予定に縛られない時間であるはずです。
にもかかわらず、最近の人々は次の休日はスキーに行こうと予約をとったり、映画に行こうと前売り券を買ったりと、とにかく予定をいれたがります。
本来予定を詰め込んだ平日から気持ちを解放させるための休日「である」はずなのに、その休日に休みを楽しむための「する」ことを詰め込んでしまっている。
「する」価値観から解放されて「である」価値観のなかでリフレッシュするはずの休日にそんなことをしたらますます疲れてしまうのではないか?
僕は余計なお世話だと思うのですが、言いたいことは分かります。
休日という「である」価値観の分野に「する」価値観が浸透しているという例です。
 
もうひとつ挙げられているのが、アメリカの学術論文です。
本来、論文とは質で評価されるものです。
何十年かけなければ分からないような偉大な発見だってあるはず。
それなのに今の学会の評価では、一定期間論文を出さなければサボっているとみなされてしまいます。
そのため、定期的に論文を発表することが大切になる。
これは質ではなく量の論理です。
こういった、長い時間を費やして最終的に偉大な結果が出るかもしれない分野で効率を追求するのはいかがなものか?というのが、筆者が指摘するところ。
アメリカのこうした現状に対して、日本の教授は終身雇用であるため、その結果怠ける人も確かにいるけれど、反面で質を追求することができるという利点もあると丸山さんは付け加えています。
 
上に挙げたように本来「である」価値観で動くはずの部分で「する」価値観が広がってる。
その問題提起をして、次節へと続きます。
 
 
 
 
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