高校一年生になると、多くの学校で扱う山崎正和さんの「水の東西」という作品。
鹿おどしと噴水を通じて、欧米と日本の感覚の差を論じています。
日本の文化は鹿おどしに流れる時間やありのままの姿を感じ、欧米の文化で噴き上げる噴水に空間的な美しさを求めるのだそう。
別に、水の東西を西洋の文化と日本文化の対立軸を学ぶための教材として機械的に学ぶのであれば、それほど複雑なテキストではありません。
「鹿おどしが日本的で噴水が欧米的」という主題が、①「流れる水と噴き上げる水」、②「時間的な水と空間的な水」、③「目に見えない水と目に見えない水」というように形を変えて繰り返されるだけです。
対立軸を追って、文の構造を理解するという目的ならばこれで十分なのですが、せっかく子の文章に触れるのであれば、ここで終わりはもったいない。
せっかくの裳白い文章なので、少しだけ内容を噛み砕いて見ていきたいと思います。
まず、そもそも噴水の違いと鹿おどしの違いの理解を深めたいと思います。
作者の山崎さんは、鹿おどしのことを「水の流れなのか、時の流れなのか、『鹿おどし』は我々に流れるものを感じさせる。それをせき止め、刻むことによって、この仕掛けはかえって流れてやまないものの存在を感じさせる。」と言っています。
一方で噴水のことは、「音を立てて空間に静止しているように見えた」と表現されています。
両者の違いは何か。
文字では違いが分かったような気がするのですが、僕は直感的に分かりやすくするために、映像と写真の違いで考えています。
例えば写真で見て美しいのは噴水です。
作者の意図を反映して噴き上げる水の姿は静止画で見ても臨場感が伝ってくるはず。
それに対して鹿おどしは写真で見るとただの竹筒がそこにあるだけ(笑)
ちょぼちょぼと水が竹筒に注がれる絵を見ても、非常に地味なだけで、どうやっても噴水のスケールには劣ってしまうでしょう。
これが動画になると立場は逆転します。
鹿おどしの場合、水が少しずつ注がれて、今か今かと待っているうちにやがて、満タンになった水を吐き出すために竹筒が傾きます。
そして、空になった竹筒が戻るとき、「コツン」という音と共に意思を打つ。
注がれる水の音と一気に吐き出されるときの水音、そして戻ったときの石を打つ音と、鹿おどしは動きにも出る音にも変化があります。
だから見ていても飽きない。
一方で噴水は、基本的に一定の水量を変わることなく噴き上げ続けます。
静止画であればその瞬間を捉えて壮大に見えるのですが、映像でそんなものを見せられたら、退屈にたえられないでしょう。
僕は世界で一番有名な噴水は小便小僧だと思っているのですが、あんなもの動画で30分も見せられたらたまったものではありません。
噴水は映像には向いていないわけです。
静止しているときの美しさと言うのが作者のいう空間的な美しさで、映像としての美しさが、同じく作者の言葉でいう時間的な美しさ。
鹿おどしと噴水をそれぞれ、映像と写真で見てみると、作者の言わんとすることが、より直感的に理解できる気がします。
西洋と日本では、自然に対するアプローチが対照的であるというのは、センター試験でも題材として扱われたことのあるくらいメジャーなトピックです。
例えば庭について。
西洋の美しさの感覚では、いかに人が趣向を凝らして手を加えたかに美しさを感じ、日本の感覚ではいかにありのままの姿の中に美しさを見出すかという部分に重点が置かれます。
西欧の庭は左右対称で、人工的なレンガの敷き詰められたようないつ見ても同じ美しさを保つ庭が多いのに対して、日本の庭は自然の姿や非対称な構図、そして時間とともに変化していくのを前提に作られています。
こうした庭一つとっても、日本と西洋では、美しいとするものに違いが現れます。
水の東西の後半に出てくる「見えない水と、目に見える水」とは、こうした日本と西洋の美しさに対する感覚の違いが述べられているわけです。
以前、チームラボの猪子寿之さんがTEDの講演でこの事に近いことをプレゼンしていました。
猪子さんは西洋と日本の庭の違いから芸術の歴史に話を深め、最期はスーパーマリオという横スクロール型のゲームが日本で発明された理由に言及するという非常に面白い繋げ方をしていました。
水の東西の理解を深めようとしたら、この講演は非常に役に立つと思いますので(何より純粋に面白いです)、ぜひご覧になってみてください。
日本文化と空間デザイン~超主観空間~ | 猪子 寿之 | TEDxFukuoka - YouTube
文の構造を学ぶだけでなく、いろいろな気づきを与えてくれる「水の東西」。
僕のオススメの教材作品の一つです。