お正月らしく、和歌や短歌や百人一首についてまとめてみた。
朝起き「て」歯を磨く
雨降っ「て」地方まる
あけまし「て」おめでとう
どうしても「明けた」という事実確認と「おめでたい」という状態を無思考のまま単純接続で結ぶのが憚られるので、僕の新年の挨拶は「明けた」という事実確認だけにしています。
もちろん元日を一年の区切りと考えて、去年も無事一年を超えられたという思いを噛み締めながらいう「明けましておめでとう」ならいいのですが、少なくとも僕はそんな事に思いを馳せるタイプではないので、安易に「おめでとう」はどこか気がひけるのです。
そんなどうでもいい屁理屈はおいておいて。。
最近、和歌や俳句を勉強しています。
もちろん作る方でなく楽しみ方の方(笑)
今までどうしてもこの分野だけは良さが全く分からなかったんですよね。
「今の気持ちを込めた十七文字あるいは三十一文字のつぶやき」って、ただのTwitterじゃん!みたいな。
ちなみに僕が1番好きな歌は「ダメ男子 モテ期が来ても 死んだ目だ」っていうひっくり返しても意味が変わらないこの川柳。
あとは意味もなくただ似た動物を並べただけの「トドラッコ アシカアザラシ オットセイ」なんて言うのもお気に入りです。
・・・本当に風流のカケラもありません。
全く「和歌を愛でる風流心」みたいなものを持ち合わせていないんですよね。
なんなら小林一茶の「初夢に 故郷を見て 涙かな」みたいな歌に対して、「こんなん今なら『初夢に故郷わずww(泣)』でしょ?」たいなとんでもなく失礼なことを言ってたくらいです(笑)
Twitterに被せておちゃらけた説明をするのはともかく、きちんと良さは知っておかなければならないよなと思い、改めて色々な和歌や俳句に当たっています。
そんなわけで短歌・俳句に限らず、狂歌に都々逸と色々な「歌」を見ていく中で、僕なりに3つの楽しみ方があるんじゃないかと思ったので、それをまとめます。
1.超絶技巧系
ひとつ目は直感的に最もわかりやすい、一瞬の思考で歌に多種多様な技巧を込めた作者の機知に驚くといった和歌の楽しみ方です。
代表例としては伊勢物語に出てくる「唐衣(からころも) きつつ萎れにし 褄しあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ」という短歌が挙げられます。
唐衣という枕詞、「〜褄しあれば」までが序詞となっていて、「きつつ」や「はる」といった所には掛詞が、おまけに「衣/きつつ/萎れ/褄/はる(張る)」みたいな縁語が用いられています。
その上で各句の頭の文字をとると「かきつばた」の主題が出て来る(折り句といいます)というとんでもない一首。
或いは江戸時代の天才狂歌師である蜀山人が旅先の近江で読んだといわれる「乗せたから 先は会わずか ただの籠 ひら石山に 走らせてみい」という狂歌。
近江の籠屋(今で言うタクシー)に近江八景を全て読み込んだ歌を詠んだらタダで運んでやると言われて詠んだとされています。
近江八景(瀬田/唐崎/粟津/堅田/比良/石山/長谷/三井)が順に「乗せた(瀬田) から先(唐崎)は会わず(粟津) かただ(堅田)の籠 ひら(比良)石山(石山)に走ら(長谷)らせてみい(三井)」といった具合で読み込まれています。
伊勢物語のものも蜀山人のものも、どういう発想力があれば生み出せるのだろうという超絶テクが盛り込まれています。
こういう超絶技巧に感心するのがひとつ目の楽しみ方です。
2.世界の歩き方系
漫画家の山田玲司先生が、アートは昔の天才たちが俺には世界がこう見えるっていうのを残してくれたものと言っていました。
僕はこの言葉をきっかけに芸術がすきになったのですが、歌にも作者が感じた「俺には世界がこう見える」というのが込められていると考えると楽しめるようになります。
例えば「散りぬとも 香をさへ残せ 梅の花 恋しきときの 思ひ出にせむ」という歌には、もう会えなくなった人を香りで思い出すという筆者の繊細な視点が描かれています。
j-popの歌詞で「あなたの香りであの時を思い出す」みたいなものが時々ありますが、あれと同じ系譜でしょう。
たしかにそんな感情あるよねという、僕たちが言われると納得するような気持ちを文字で改めて知らせてくれる。
それをコレクションするイメージなのが、2つ目の楽しみ方です。
万葉集の「君まつと 我が恋をれば 我が宿の すだれ動かす 秋風の吹く」だったら、好きな人をまだかと待っている時は、風になびくすだれの微かな音でさえ、あなたが来たのではないかとドキドキしてしまう(そして結局来てはくれないのですね)という気持ちが歌われています。
これをそのまま現代に当てはめて、好きな子からのLINEの返信を待っていると、他のプッシュ通知にいちいち期待してしまうという時のあの感覚だと考えると共感できるのかもしれません。
そんな昔の天才たちの感情コレクションとしての楽しみ方が2つ目。
3.背景洞察型
何でもそうですが、深く楽しみたかったら一定の知識量が必要です。
例えばバクマン。というマンガの12巻に、ある登場人物の姉が弟にエールを送るために「あきらめたらそこで試合終了だ」という言葉を贈るのですが、これはslam dunkを知っている人にとっては、単なる姉から弟へのセリフではなく、slam dunkのあの名シーンに込められた思いが重ねられていることに気がつきます。
そして、一層その作品を楽しめるようになる。
歌もこういう側面があって、たとえば百人一首にある「かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける」という歌に出て来る「かささぎの渡せる橋」とは一年に一度だけ会うことが許された織姫と彦星が再開させるためにかささぎたちが集まってかけるとされている白い橋のこと。
そんな、七夕の夜に織姫と彦星の前に現れる幻想的な白い橋のように霜で真っ白になったということをこの歌には読んでいるわけです。
また、当時の文化を知らなければ分からない歌もあります。
たとえば小林一茶が娘を無くした時に読んだ「手向くるや むしりたがりし 赤い花」というこの俳句。
意味は「あなたがむしりたがったあの赤い花を、今あなたに手向けます」となり、これだけでは何のことか分かりません。
この歌を理解するためには、江戸時代の「花」に対する見方、もっといえば現代の「過去→現在→未来」という時間の捉え方とは異なる時間感覚を知っておく必要があるわけです。
咲いた花にはもともと、認識できない世界が我々のいる世界に顔を出すというイメージがあります。
だから、それを「摘む」というのは避けなければならないわけです。
唯一花を積むのが許されたのが、死者を弔う手向けの花を備える場合。
こういう価値観を踏まえて一茶の歌を読むと、味方がまるで変わってきます。
「幼いあなたがむしりたがっていたあの赤い花を、今ようやくあなたに上げることができます」
幼い自分の子供が元気に「あの花が欲しい」って言っていたのを、死んでしまった墓前で始めて叶えてあげられたとあえて詠んだ一茶の悔しさや悲しみに溢れた心中が伺えます。
こんな感じで僕は3種類の読み方をすればある程度楽しめることがわかりました。
もちろん読み方なんて人それぞれですし、そもそも短歌や俳句を好きになる必要もないと思うのですが、もし興味があったら、こんな切り口で見てみると楽しめるかもしれません。
そんなわけで今年もよろしくお願いします。