宇多田ヒカル「花束を君に」考察〜「花束を贈る」という行為に込められた想いを読み解く〜
高校生の頃、エリック・クラプトンの『Tears in heaven』を効いて以来、この曲は僕のお気に入りになりました。
もともと好きだったベートーヴェンの『ソナタ悲愴(第2楽章)』と似た空気を感じたのです。
後になって、そのころの僕には分からなかった音楽理論を知ることで、これらは悲しい歌なのに長調で構成されているという共通項に気がつきました。
明るい曲調で悲しみを歌い上げた曲。
宇多田ヒカルさんの『花束を君に』は僕の中では『Tears in heaven』や『悲愴』と同じ明るい悲しみを表したジャンルにカテゴライズしています。
『花束を君に』が収録されているFantomeというアルバムは、宇多田ヒカルさんの母親が亡くなった時期に制作された作品なのですが、全編を通して母への思いが感じられます。
特に『花束を君に』は、単体で聞くと好きな人への気持ちを伝えるような歌にも聞こえるのですが、このアルバムの文脈で聞くと、まるで違う見え方になる楽曲であるように思うのです。
僕は『花束を君に』を、母への思慕と母からの解放の思いが込められた歌であると考えています。
以前「母への想いを託した曲~宇多田ヒカル「真夏の通り雨」考察~ - 新・薄口コラム」というエントリでも書いたように、宇多田ヒカルさんの母、藤圭子さんは、圧倒的な才能を持つミュージシャンで、ある意味で宇多田ヒカルさんにとって、追いつきたいと憧れていたであろう存在です。
一方で私生活は様々な噂が流れるほどに奔放で、それによって宇多田ヒカルさんが苦労したというエピソードも、雑誌の記事などを読んでいるとみかけます。
いつか追いつきたいと思う一方で呪縛から解放されたい存在。
それが宇多田ヒカルさんにとっての母だったのではないかと思うのです。
『花束を君に』を祝福の歌として効いていると、いくつも違和感のある表現にたどりついてしまいます。
しかし亡くなってしまった母への「献花」、そして母への思慕と母からの解放という複雑な感情をそのまま描いた楽曲として聞くと、歌詞が繋がるのです。
<普段からメイクしない君が薄化粧した朝>
こう続くAメロが一見すると結婚式の日の朝のように感じられるため、この曲を「結婚の曲」と読む人も多いと思うのですが、僕はこれが御葬式の出棺の儀に聞こえました。
普段はメイクをしない母が、「薄化粧」をして眠っている。
結婚式ならば「薄化粧」である必要がありません。
棺で眠る母が化粧を施された。
その表情を見て<始まりと終わりの狭間で 忘れぬ約束した>というのが僕のAの解釈です。
そしてそのまま突入するサビの部分。
<花束を君に贈ろう>
こういった直後に愛しい人と言っているのですが、5〜8小節目で<どんな言葉並べても 真実にはならないから 今日は贈ろう 涙色の花束を君に>と、何か含みのある表現になっています。
僕は<どんな言葉並べても真実にはならない>という所には、宇多田さんが「君」に対して抱く複雑な感情が込められており、そしてそれが母への(からの)思慕と解放だと思うのです。
ようやく母から解放されたという気持ちの一方で慕っていた、背中を追いかけていた母を失った喪失感。
そんなものとても言葉にできないので、今はただ送り出したい。
<今日は贈ろう 涙色の花束を君に>という歌詞に描かれているのはそんな気持ちなのではないかと思います。
2番のAメロでは、「苦労や悲しみがなく楽しかったことだけなら愛を知らずに済んだ」というような気持ちが歌われます。
ここには、苦労もしたけれど楽しいこともあったので、「君」を愛してしまったという気持ちが現れます。
これが宇多田ヒカルさんの気持ちを歌ったものだと仮定したら、「君」は楽しいことだけでなく苦労や淋しさを与える存在ということになります。
そしてその両方を送ってくれた人だからこそ、今愛情を感じてしまっている。
Aメロの終わりの<愛なんて知らずに済んだのにな>という表現には、「君」からの愛情を知りたくなかったというニュアンスが伺えます。
そしてそれは、「君」を失ったからこそ出てきた感情だというのが僕の解釈です。
2番のサビでは、<花束を君に贈ろう 言いたいこと言いたいこと きっと山ほどあるけれど 神様しか知らないまま 今日は贈ろう 涙色の花束を>と続きます。
言いたいことは山ほどあるけれど神様しか知らないままというのは、言いたいことことの真実は神様しか知らないままであなたを贈り出すという意味だと思うのです。
やはりここでも、1番のサビにあった「君」に対する複雑な心境が描かれています。
色々な真実や聞きたいことは山ほどあむたけれどそれはあえて聞かないでおくことにした、というか突然死んでしまったあなたに聞きたいことがあったけれどそれは今は忘れよう。
そんな気持ちが読み取れます。
2番のサビでは自分の本当は確かめたかった複雑な感情を描いた一方で、3番のサビで「君」への感謝が描かれます。
<君の笑顔が僕の太陽だったよ 今は伝わらなくても 真実には変わりないさ>
ここは自分の抱いた「君」(僕の解釈では母)へのある意味で懺悔のようにも感じられます。
「君」のことを本当はとても慕っていたのに、その気持ちを伝えられなかった。
だから伝わらなくても真実だといって気持ちを伝える。
そして<抱きしめてよ、たった一度 さよならの前に>と続きます。
歌詞に読点を用いることの少ない宇多田ヒカルさんがここで用いた読点には、思わず気持ちが溢れる様が投影されているように見えます。
「抱きしめてよ」そう気持ちを言った途端に目の前の現実が目の前に現れる。
<さよならの前に>からは、本当は君と別れる前に一度本心を伝えて、抱きしめて欲しかったという気持ちが読み取れます。
ここにきて(そしてここだけに)初めて、「悲しみ」が描かれるのです。
そして最後のサビに向かう。
<どんな言葉並べても 君を讃えるには足りないから 今日は贈ろう 涙色の花束を君に>
最後はあなたを讃えるにはどんな言葉でも足りないから、様々なニュアンスを「花束を贈る」という行為にこめて伝えることにする。
そうやって歌が綴じられます。
相手への祝福、門出に対する餞けetc...
「花束を贈る」というのは様々な場面で行われますが、それらのいずれもが、「特別な人に気持ちを伝える」という目的のための行為です。
宇多田ヒカルさんは、母に対する気持ちを正直に言ってしまえばネガティヴなものもでてきてしまう。
だからといって嫌いなわけはなく、憧れていたし好きだった。
そのどちらか一方を表現しても嘘になってしまうから、どちらも伝えられる歌にしたかった。
その手段として選んだのが「花束を贈る」という行為をテーマに選ぶことだったのではないかと思うのです。
もちろん僕は宇多田ヒカルさんの実生活を知っているわけでなく、どんな人かなど知らないので、歌詞から受け取った印象をそのまま言葉にしただけです。
だから、本当は全く違う歌なのかもしれません。
ただ、Fantomeというアルバムの文脈で聞くとこういうようにも聞くこともできると思うのです。
色々な解釈の余地のあるこの歌。
皆さんはどのように聞きますか?
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