新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



日本人の「悪い」観から考える課題解決~善悪の判断と原因の所在を区別する~

昔落合陽一さんが[lucky]と[happy]の意味を内包している「幸福」という言葉の特殊性を指摘していました。

本来[happy]であるという感情を示す「幸」と、偶然いいことが起こったという意味の「福」を引っ付けた言葉を使ってしまったせいで、日本人には幸せと運がいいことが結びついて理解されるというのが落合さんが言っていたこと。

とても面白い指摘だと思いました。

確かに僕たちは、幸せや成功みたいなものは、運によって転がり込んでくるかのように思いがちです。

そんな結びつきがどうして起こるのかと考えたときに、その所在が「幸福」という言葉にあるのではという仮説は、一定の納得度があります。

 

「幸福」という言葉によって幸せと運がごちゃ混ぜになっているというのが落合さんの指摘ですが、僕は同様のことが「悪い」という言葉にも言えるのではないかと考えています。

日本語の悪いには、「いじめをするなんて、その人が100%悪いよ」という、不道徳や不正を指摘する[bad]のような使い方と、「それさきちんと確認しなかった君が悪いよ」というように、英語で言えば[fault]のような落ち度を表す使い方があります。

前者は善悪の判断であるのに対し、後者は原因の所在。

日本人は、そのどちらも「悪い」という言葉で表してしまうが故に、善悪の判断と原因の所在が一緒くたにされがちであるように思うのです。

 

本来なら善悪の判断と原因の所在が異なることなんてザラです。

例えばお婆ちゃんが営んでいる個人経営の駄菓子屋でウトウトしているすきに万引きが横行していたとして、悪いのは100%万引きをした者でしょう。

しかし、原因の所在を考えたとき、必ずしも万引き者に全ての責任があるとは思わないと思うのです。

そもそも簡単に万引きされるとしたら、何かしら対策も練られるはずです。

それをせずに毎回も被害を訴えるだけでは何も解決しないと思うのです。

 

善悪の判断と責任の所在が混同しているが故に解決しない問題のもう一つの典型が「いじめ問題」だと思います。

あれも、善悪の判断としては「いじめる側が100%悪い」という部分に異論はないでしょうが、だからといって、原因の所在も100%「いじめる側」に求めているのが解決しない最大の原因ではないかと思うのです。

誤解の無いよう断っておくと、僕はだからといって原因の所在を「いじめられる子」にあると言いたいのではありません。

僕が最大の原因だと思っているのは、今まで原因の所在として議論の俎上に上がってきたことのない「システム」の部分です。

いじめに関しては、悪いのは「いじめる側」、原因の所在は「学校というシステム」ではないかというのが僕の仮説です。

 

以前、とあるいじめの専門家なる人が、「現代のいじめは対象となる子がいなくなっても、別の子がターゲットとなっていじめが起こる」という主張をしていました。

これって、現代の子どもたちに問題があるのではなく、学校という「システム」そのものに問題があると思うのです。

いじめられる子といじめる子がいなくなってもいじめが起こるのであるとしたら、それはもうシステムに原因があるのではないかと…

学校という仕組みレベルで見ると、不特定多数の子が①無作為抽出で、②強制的に教室に収まり作業をこなし、③原則として行かないという選択肢がない環境であるといえます。

(これは学校のコンテンツを批判しているというのではなく、あくまで一番大枠の「システム」の話です。カリキュラムがどうだとか、先生がどうとかいう話では一切ないので、そこはご理解下さい。)

事実、同じように刑務所や会社やママ友など、①~③が揃ったコミュニティではいじめあるいはそれに類似した行為が発生します。

エビデンスはないですが、これは直感的に理解していただけるはず)

このニュース(http://news.livedoor.com/article/detail/15581630/)にもあるように、田舎の村では今も村八分のようなことがあるようですが、これも①~③が揃っている場所といえます。

反対に、①~③のいずれもないコミュニティでは、いじめは起こりにくい。

 

いじめに関しても、善悪の判断と原因の所在を一致させたがることが、解決を阻む最大の要因となっていると思うのです。

そしてその理由は、やっぱり善悪の判断と原因の所在という二つの意味を「悪い」という言葉が含有していることに由来しているというのが僕の考え。

 

別に僕は、これを以って「悪い」という言葉を使わないようにした方がいいだとか、安易に「悪い」という言葉で片付けているからダメなんだみたいなことを言いたいのではありません。

そうではなく、僕たちは無意識の内に「悪い」という言葉で善悪の判断と原因の所在を一緒くたにしがちだから、何かの問題を解決しようとする時は、善悪の判断と原因の所在を意識するとよりよい解が得られる可能性が高まるのではという提案のお話しです。

ソシュールじゃないですが、僕たちは言語で文節されていないものを無意識に区別することはできません。

だから、問題解決の手段として、問題が解決しない根本原因が「文節化されていないこと」にあるという可能性に目をむけるメンタリティが重要だと思うのです。

冒頭の「幸福」や「悪い」という言葉はあくまでその一例。

解決策の発見方法として、使用する言語を疑うというパターンを持っておくと便利なように思います。

 

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言葉とは何か (ちくま学芸文庫)

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