たとえばご飯を食べたいと思ってお店を探すとき、みなさんは何を使いますか?
たとえばちょっと遊びに出かけようと思ったとき、みなさんは何で調べますか?
恐らくほとんどの人がとりあえずGoogleで検索(最近だとインスタで検索)なのではないかと思います。
因みに僕は基本的にこればかり(笑)
この前久しぶりにちょっと時間ができたので、無目的に散歩をしていたら、一件のお店を見つけました。
老夫婦と息子さんの3人で経営されているそのお店は検索して引っかかるようなWEBサイトを構えているわけでもありません。
食べログにもなっていないようなひっそりとしたお店。
でも、とても美味しいんですよね。
僕らはついつい何でも分かるように思ってしまいがちですが、ほとんどの場合で言語化されたものしか認識することができません。
それと同じでウェブに対して僕らが向き合う時も、ついつい何でも載っているかのような錯覚をしてしまいます。
でも、実際はウェブでは「載っている物しか調べられない」んですよね。
そんな当たり前のことをついつい忘れてしまう。
オンライン情報の情報が最終目的地である場合はオンラインの情報量>オフラインの情報量ということもありますが、観光にしろレストランにしろゴールがオフラインの場合、どこまでいってもオンライン>オフラインにはなり得ません。
でもついつい僕たちはそんな当たり前のことを忘れてしまう。
僕はこの、「ついつい忘れてしまう」というところにむちゃくちゃ大きな価値があると思っています。
みんながその前提を忘れてしまうということは、それを意識した情報収集手段を持っているだけで、大きな価値になります。
僕はその人らしさとは「他の人が真似できない部分だと思っています。
で、他の人が真似できない情報がその人「らしさ」なのだとしたら、それが足で得た情報なのか、そのジャンルで信頼できる知人からの口コミなのか分かりませんが、「誰でも真似できる」検索では出てこない情報にたどり着く手段を持っているのは擬似的に「らしさ」であるといえるように思います。
もちろん自分らしさは内からにじむものだから、周囲から情報を集めただけのことを「自分らしい」と呼ぶなんてけしからん!みたいな意見があるのも重々承知しています。
でも、僕はそういう努力してやっと手に入れられるだけじゃなく、外部の情報を持っているというだけでも充分に個性とカウントしていいと思うんです。
だって、「それを見つけるに至った過程」は十分その人らしいから。
検索以外の検索手段を持っている事。
そして検索しても出てこない(同じ結果を導くのではない手段で仕入れた情報)はその人らしさに相当するんじゃないか。
そんな風な事をふと思いました。
アイキャッチは松村圭一郎さん『後ろめたさの人類学』