新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



往復書簡[3通目](2019.10.02)しもっちさん(@shimotch)へ

福岡に住むバーのマスターと往復書簡をやっています!よかったらこちらからお読みください。

note.mu

しもっちさんへ

 

島原の虫の音が響く田畑の風景!とても素敵だと思いました。僕の頭にも、虫の音を背景音楽に、頭の垂れる稲穂が風に揺れる幼少期の地元の風景が頭に蘇りました。「頭に蘇りました」なんて書いて初めて気付いたのですが、同じ「虫の音」で思い浮かべる風景であっても、きっとしもっちさんが浮かべた九州の島の風景と、僕の頭に浮かんだ太平洋側の潮風が吹き込む風景とではまったく異なるものなのでしょう。(余談ですが、僕の生まれは静岡県浜松市です)

同じ言葉であるはずなのに、そこから思い浮かべる景色はそれぞれで異なっている。僕は文字というメディアの持つ最大の魅力の一つが、ここにあると思っています。

 

同じ「青」という言葉であっても、そこから連想する「青」という色が必ず微妙に異なっているように、あらゆる言葉をきっかけに頭に浮かぶ情景はそれまでの個人の経験に影響されるため必ずそこに個人差が生まれるように思います。どの落語家さんだったか忘れましたが、以前、『二階ぞめき』という落語を題材に文字情報の妙を話していたのを思い出します。『二階ぞめき』は吉原が好きな若旦那が主役の落語で、「そんなに遊郭が好きなら、家の二階に作ってしまえばいいだろう」という番頭のひと言で、家の二階に吉原を作ってしまう場面が描かれます。当たり前ですが、吉原なんて、家の二階に作れる規模のものではありません。にもかかわらずこの落語を聞くと、まるで本当に吉原が存在するかのように思えてくるわけですが、それは、落語家さんが語る架空の「吉原」を表す言葉を聞くたびに、聞き手が自らの経験の中にある情景を呼び起こし、それらをかき集めて一つの「吉原」像を作るからこそ成り立っているのだと思うのです。文字というメディアによって各々がまったくちがう「吉原」を頭に思い浮かべる。文字という、映像や音声と比べて情報量が少ない装置だからこそ作り出せる面白さだと思います。

 

さて、しもっちさんから頂いた、「自然」というキーワードと、情報量に関するお話を見て、僕は宮崎駿監督と庵野秀明監督が対談動画で話していた、アニメと情報量の話を思い出しました。「僕の描く絵はリアルだと言われるけれど、そこには汗臭さも、蚊にさされた鬱陶しさもないし、本当の自然と比べたら、情報量には雲泥の差がある」みたいなことを言っていたと記憶しています(もしかすると、僕が都合のいいようにアレンジしているかもしれません…)。宮崎駿さんが言っていたからというわけではないですが、僕は自然の持つ情報量のポテンシャルって凄いと思うんです。どんなにきれいな画質で撮れたとしても、最高の録音機を使ったとしても、再現される「自然」の情報量は、0と1に分解して再構築するというデジタルデバイスを通す限り、絶対に機器の性能の制約は受けますし、0と1に分解するときに失われた誤差は再現できません。その意味で、どれだけデジタルデバイスの性能が上がったとしても、情報量という観点からいけばオリジナル>デジタルという構造は崩れないんじゃないかなと思ったりしています。とかくITが注目を浴びる現在だからこそ、自然に触れて、自然のもつ純度100%の情報量に身を委ねるという経験が、今後の大きな武器になるのではないかなんて考えています。僕が自然と言われて思いつくのはこんな所です。

 

柄にもなく、まじめなことを書いてしまいました(笑)こんなんで答えになっていたら幸いです。

 

 

宮崎駿の雑想ノート

宮崎駿の雑想ノート